医療AIは、一見複雑な数学に支えられていますが、その本質は3つの重要な分野に集約されます。ここでは、AIがデータをどう見て、どのように学習するのか、その中核をなす「線形代数」「微分」「確率・統計」の役割を直感的に解説します。
膨大な患者データを、コンピュータが扱いやすい「行列」や「ベクトル」という形式に整理します。これにより、AIは大量の情報を一括で高速に処理でき、計算の基盤となります。
AIの予測と正解の「誤差」を最も効率的に減らす方向(勾配)を教えます。この情報を頼りにパラメータを更新し、AIは自ら賢く学習を進めていきます。性能最適化の要です。
AIの予測に「80%の確率で疾患A」といった確信度を付与します。不確実性を扱い、結果の信頼性を担保することで、より現実に即した判断を支援します。
最近、医療分野でのAIの話題を耳にしない日はない、と感じることはありませんか?特に、画像や文章を生成する「生成系AI」の登場で、新しい診断支援技術や、一人ひとりに最適化された個別化医療、さらには創薬プロセスの劇的な高速化など、その可能性に胸が躍るような期待を感じます。
ただその一方で、AIの内部で一体何が起きているのか、正直なところ「ブラックボックス」のように感じていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。専門的な論文を読み解こうとすると、急に難しい数式が登場して、「自分の研究や臨床に活かしてみたいけれど、今から数学を学び直すのは少しハードルが高いな…」と思ってしまう。私自身も、初めはそう感じていました。
この連載は、まさにそうした思いを持つ方々のために作られました。目的は、数学の専門家になることではありません。AIに命を吹き込んでいる数学の「本質」を、数式の意味や役割を理解しながら、直感的に掴み取ること。そして最終的には、ご自身の研究や臨床というフィールドで、自信を持ってAI技術を応用できるようになることを目指しています。
では、その旅の第一歩として、まずはAIの全体像を一緒に眺めていきましょう。AIの中核を担う機械学習モデルが、どのようにしてデータを「学習」し、未来を「予測」するのか。その根幹を支えているのは、実は、たった3つの重要な数学分野なのです。それが、「線形代数(行列)」「微分」「確率・統計」です。
これらを単なる学問として捉えるのではなく、AIを動かすための「3種の神器」のような、実践的なツールセットとして見ていきたいと思います。身近な医療シーンを例に取りながら、それぞれのツールがどのような役割を担っているのか、その仕組みを解き明かしていきましょう。
AIとの対話の第一歩:なぜ数学が「共通言語」なのか?
日々の診療や研究で、私たちは膨大なデータに触れています。モニターに映し出されるMRIの断層画像、電子カルテに並ぶ無数の検査値、病理医が記述した詳細なレポート。これらは私たちにとって、患者さんの状態を理解するための重要な情報ですよね。
では、AIはこれらの情報をどう「見て」いるのでしょうか。ここが、AIを理解する上で最初の、そして最も重要なポイントになります。実は、AIは私たちが認識しているような画像や言葉を、そのままの形で理解しているわけではありません。AIが唯一扱えるもの、それは「数字」の集まりだけなのです。
この「現実世界の情報を、数字の世界へ翻訳する」というプロセスを、少し具体的に覗いてみましょう。
この図が示しているように、AIの世界ではすべてが数字に置き換えられます。
- あの白黒の濃淡が美しいMRI画像は、AIにとってはピクセル一つひとつの明るさを数字で表した、巨大な「数の表(行列)」に過ぎません。
- 患者さんの背景を示す電子カルテの情報は、年齢、身長、体重、検査値といった項目が並んだ、一本の「数のリスト(ベクトル)」として扱われます。
- 私たちが意味を読み取る文章でさえ、単語や文字を特定の番号に置き換えた「数字の系列」へと変換されてしまうのです。
そして、ここからが本題です。もしAIの世界が「数字」だけでできているのなら、その世界で物事を考え、何かを発見するためには、数字を扱うための専用の言語が必要になりますよね。
それこそが、数学なのです。
私たちが解剖学や生理学、薬理学といった「医学の言語」を駆使して、患者さんの状態を多角的に解釈し、診断や治療方針を組み立てるように。AIは「数学という言語」を用いて、この無味乾燥に見える数字の集まりの中から、意味のあるパターンやデータ同士の隠れた関係性を見つけ出し、学習を進めていきます。
この言語がなければ、AIは膨大なデータを保存しているだけの、ただの高性能な電卓やデータベースに過ぎません。数学というツールがあって初めて、AIはデータから何かを学び取る「知能」を持つことができる。そう考えると、数学が少し身近なものに感じられてきませんか?
AIの思考を支える「3種の神器」:数学の全体像を掴む
さて、AIが見ている世界は「数字」でできている、という話をしてきました。では、その数字の集まりを、AIはどのように扱っているのでしょうか。ここで登場するのが、AIの思考を支える、いわば「3種の神器」とも呼べる数学のツールセットです。それが「線形代数」「微分」「確率・統計」の3つです。
これからの連載で一つひとつじっくり見ていきますが、まずはそれぞれの道具がどんな役割を持っているのか、医療現場のプロセスに例えながら、その全体像を一緒に掴んでいきましょう。
1. 線形代数:膨大な患者データを一望する「デジタルカルテ」
最初の神器は線形代数です。AIを学ぶ上で、多くの方が最初に少し戸惑う分野かもしれませんが、その役割は非常にシンプル。「大量のデータを、コンピューターが扱いやすい形に整理整頓するための、究極の『器』や『箱』を用意してくれるツール」だと考えてみてください。
前章の図で見たように、AIは現実世界の情報を「数字の集まり」として認識します。例えば、100人分の患者さんの健診データを扱うとしましょう。各患者さんには年齢、BMI、血圧、コレステロール値など、50項目のデータがあるとします。私たちが見るなら、それは分厚いカルテの束か、どこまでも続く巨大なExcelシートかもしれませんね。
AIは、この状況を線形代数の「行列(Matrix)」という言葉を使って、非常にすっきりと表現します。
この図が、AIがデータを見ている時の「視点」そのものです。
患者さん一人ひとりのデータ(この図の横1行)は、50個の数字が並んだリストですが、これを線形代数では「ベクトル(vector)」と呼びます。単なる数字のリスト、と考えることもできますが、もう少し面白い見方もあります。これは「50次元という、ものすごく高次元な空間に存在する、たった一つの『点』」だと想像してみてください。そして、似たような健康状態の患者さんは、この高次元空間の中で、互いに「ご近所さん」として近い位置にいる、というイメージです。
そして、そのベクトル(患者さんという点)を100人分集めて積み重ねた、この巨大な数字のブロック全体が「行列(matrix)」です。いわば、高次元空間に散らばる患者さん全員の位置情報を、一枚にまとめた「デジタルカルテの束」ですね。
では、なぜわざわざこんな小難しい言葉でデータを表現するのでしょうか。それは、線形代数が「この『カタマリ』を一気に、かつ効率的に計算するための、魔法のようなルール」を提供してくれるからです。
例えば、これらのデータから心疾患のリスクを簡易的に計算するシーンを想像してみましょう。私たちは経験的に「血圧は重要そうだ」「BMIも少し関係あるな」と考えますよね。この「項目の重要度」を、もう一つのベクトル、重みベクトル( \(\vec{w}\) )として用意します。
この2つのベクトルを使って、AIは「内積」という、線形代数の基本的な計算を行います。これは、各項目とその重要度を掛け合わせ、最後にすべてを足し合わせるというシンプルな処理です。
数式で書くと、この計算は \( (x_1 \times w_1) + (x_2 \times w_2) + (x_3 \times w_3) + \dots \) となります。この一見地道な計算こそ、実はAIが行う処理の根幹にあるものなのです。
そして、ここからが線形代数の本領発揮です。この計算を、100人の患者さんに対して一人ひとり行うのではなく、100人分のデータが入った行列 \(X\) と、重みベクトル \(\vec{w}\) を使って、たった一回の「行列演算」で全員分のリスクスコアをまとめて算出できてしまいます。
これが、線形代数がもたらす圧倒的な効率化です。単なるデータの保管場所ではなく、意味のある情報を高速に引き出すための、強力な計算エンジンとしての役割を担っている。この感覚を掴んでいただけると、今後のAIの学習プロセスの理解がぐっと楽になると思います。
2. 微分:AIが自ら学ぶための「学習コンパス」
データを綺麗な「箱」に収めたら、次はいよいよAIの「学習」のプロセスです。ここで主役となるのが、二つ目の神器、微分です。
AIの学習とは、一言でいえば「間違い(誤差)を最小化していく旅」のようなものです。AIが予測した値と、実際の正解の値。この「ズレ」を誤差や損失(Loss)と呼びます。この損失がゼロに近づくほど、AIは賢くなったと言えます。
では、どうすれば効率的に損失を小さくできるのでしょうか?ここで微分の出番です。AIの性能を決める無数の調整可能な「つまみ」をパラメータ( \(\theta\) と書いたりします)と呼びます。微分は、このパラメータを「どちらの方向に動かせば、最も効率よく損失が減るか」という、坂の傾き(勾配)を教えてくれるのです。
この図は、AIの学習プロセスをイメージ化したものです。AIは、微分の計算によって得られた「勾配」という情報を頼りに、まるで坂道を転がり落ちるボールのように、誤差が最も小さくなる谷底へと向かってパラメータを少しずつ更新していきます。この、最も良い地点(最適解)を探し出すプロセスを最適化(Optimization)と呼びます。
微分は、AIが自力で学習し、賢くなるための「コンパス」の役割を果たしている、と言えるかもしれませんね。
3. 確率・統計:AIの答えに「確信度」という体温を与える
最後の神器は確率・統計です。これは、AIの予測に「どれくらい自信があるか」という確信度を与え、その答えに血の通った「体温」を持たせるためのツールです。
臨床現場での判断が常に「100%」ではないように、AIの診断支援も不確実性を伴います。AIがただ「この画像は悪性です」と断定的に答えるだけでは、私たちはその答えをどこまで信頼してよいか分かりません。
ここで確率の考え方が活きてきます。優れたAIは、次のように確率を用いて答えを表現します。
【ある画像に対するAIの診断予測】
疾患A: ■■■■■■■■ (80%)
疾患B: ■■ (15%)
健常 : ■ ( 5%)
このように、最も可能性の高い選択肢だけでなく、他の可能性も「確からしさ」のレベル付きで示してくれることで、私たちはより多くの情報を得られます。鑑別診断の助けになったり、あるいはAIの自信が低い(確率が拮抗している)場合には「これは慎重に判断すべきケースだ」と気づくきっかけにもなります。
また、統計学は、データのばらつきやノイズの中から本質的な傾向を掴むための知恵を与えてくれます。これにより、AIは一部の特殊なデータに過剰に影響されることなく、より多くの患者さんに通用する、頑健で信頼性の高いモデルになることができるのです。
まとめ
今回は、AIと数学の関わりについて、その全体像を概観しました。
- AIは、医療データを含むあらゆる情報を「数字の集まり」として扱う。
- 線形代数(行列)は、データを整理するための「カルテ」の役割を果たす。
- 微分は、AIの学習を導く「コンパス」として、性能を最適化する。
- 確率・統計は、予測の確信度を測る「ものさし」として、信頼性を担保する。
数学は、AIというブラックボックスを解き明かすための鍵です。これらの数学的背景を理解することは、AIの能力と限界を正しく評価し、ご自身の専門領域でAIを真に活用するための第一歩となります。
次回、第2回「ベクトルと行列って何者? — 数の“カタマリ”が世界を表す」では、AIの出発点である「線形代数」に焦点を当て、医療データがどのようにして意味のある「数のカタマリ」に変換されるのかを、さらに詳しく探っていきます。
参考文献
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