[Math for Medical AI: M2.3] 逆行列と行列式 — 行列による「変換」を元に戻す

目次

TL; DR (要約)

行列によるデータの「変換」は、元に戻せるのか?
その鍵を握るのが、変換を打ち消す「逆行列」と、その存在を判定する「行列式」です。

① 逆行列 (Inverse Matrix)
(変換の「解毒剤」)

元の行列による変換を、完全に打ち消して「元に戻す」働きを持つ特別な行列。連立方程式を解く際などに役立ちます。

② 行列式 (Determinant)
(元に戻せるかの判定指標)

行列による変換が、空間をどれだけ「拡大・縮小」させるかを示す数値。面積や体積の変化率と解釈できます。

③ 重要な関係
(逆行列の存在条件)

行列式が0でない場合のみ、逆行列は存在します。行列式が0のとき、空間は「押しつぶされ」、情報を失うため元に戻せません。

この章の学習目標と前提知識

この章の学習目標 前提となる知識
  • 逆行列の役割を、行列による変換を「元に戻す」操作として直感的に理解する。
  • 行列式の幾何学的な意味を、変換による面積や体積の「変化率」として把握する。
  • 行列式が0でない場合にのみ逆行列が存在する」という、2つの概念の重要な関係性を学ぶ。
  • AIモデルの学習において、これらの概念がどのように数値的な安定性に関わるかを認識する。
  • NumPyを使って、簡単な行列の逆行列と行列式を計算する基本的なコードを実装できるようになる。
  • 行列とベクトルの基本的な役割
    行列がベクトルに作用して「変換」を起こす、という基本的なイメージを持っていること。(前回の内容)
  • (推奨) PythonとNumPyの基礎知識
    `np.array`などで配列を作成し、簡単な操作ができると、コードの理解が深まります。
  • ベクトルの基本的な概念
    ベクトルが大きさと向きを持つ矢印として表現されることを知っていること。
  • 複雑な数学的証明の知識は不要です。「変換」と「元に戻す操作」という直感的な理解を目標とします。

これまでの講座で、行列がデータに作用し、別のデータへ「変換」する強力なツールであることを学びました。ここで自然に湧き上がる疑問は、「一度変換したデータを、元に戻すことはできるのか?」ということです。

もし、ある行列による変換を打ち消し、完全に元通りにする操作が存在するなら、それは様々な問題解決の鍵となりそうです。

今回の講座では、この「変換を元に戻す」というアイデアの中心にある逆行列 (Inverse Matrix) と、そもそも「元に戻せる変換」なのかどうかを判定する指標である行列式 (Determinant) という、密接に関連した2つの概念について探求していきます。

1. 逆行列 (Inverse Matrix) — 変換を打ち消す「解毒剤」

逆行列とは、その名の通り、ある行列が行った変換を「元に戻す」効果を持つ行列のことです。

行列 \(A\) があるとき、その逆行列は \(A^{-1}\) と表記されます。この \(A^{-1}\) は、元の行列 \(A\) と掛け合わせると、変換を「無効化」する特殊な行列、単位行列 (Identity Matrix) \(I\) になるという性質を持ちます。

単位行列 \(I\) とは?
単位行列は、行列の世界における数字の「1」のような存在です。対角線上の要素がすべて1で、それ以外はすべて0である正方行列(行と列の数が同じ行列)を指します。どんな行列も、単位行列を掛けても全く変化しません。つまり、「何もしない変換」を意味します。

\[ I = \begin{pmatrix} 1 & 0 \\ 0 & 1 \end{pmatrix} \quad \text{や} \quad I = \begin{pmatrix} 1 & 0 & 0 \\ 0 & 1 & 0 \\ 0 & 0 & 1 \end{pmatrix} \]

逆行列の最も重要な性質は、以下の式で表されます。

\[ A A^{-1} = A^{-1} A = I \]

これは、あるデータに変換 \(A\) を施した直後に、逆の変換 \(A^{-1}\) を施せば、結局「何もしなかった」のと同じ状態(単位行列 \(I\) を掛けたのと同じ状態)に戻る、ということを意味します。まさに、毒(変換)を中和する「解毒剤」のような存在ですね。

この性質は、連立一次方程式を解く際に強力なツールとなります。\(Ax = b\) という式(\(A\) と \(b\) が既知)で未知の \(x\) を求めたい場合、両辺に左から \(A^{-1}\) を掛けることで、

\[ A^{-1} A x = A^{-1} b \]

\[ I x = A^{-1} b \]

\[ x = A^{-1} b \]

となり、簡単に解を求めることができます。


2. 行列式 (Determinant) — 変換による「面積・体積の変化率」

では、どんな行列にも必ず逆行列(解毒剤)は存在するのでしょうか?答えは「No」です。そして、その「逆行列が存在するか否か」を判定するための重要な指標が、行列式です。

行列式は、ある正方行列から計算される一つの数値(スカラー)です。行列Aの行列式は、det(A) や \(|A|\) と表記されます。

行列式の本質は、幾何学的なイメージで捉えると非常に分かりやすいです。それは、行列が引き起こす変換によって、図形の「面積」や「体積」がどれだけ変化したか(何倍になったか)を示す値なのです。

  • det(A) = 2 なら、変換によって面積は2倍に拡大されます。
  • det(A) = 0.5 なら、面積は半分の大きさに縮小されます。
  • det(A) = -1 なら、面積は変わらず、図形の向きだけが鏡写しのように反転します。

最も重要なケース:行列式が0のとき

det(A) = 0 となるのは、一体どんな時でしょうか。
これは、変換によって元の空間が「押しつぶされ」、次元が失われてしまったことを意味します。例えば、2次元平面上の正方形が、変換によって一本の線や一点に潰されてしまうような状況です。面積は0になります。

一度ぺしゃんこに潰れてしまった情報を、元通りに復元することはできません。一本の線から、元の正方形がどんな形だったかを復元するのは不可能ですよね。

このことから、以下の非常に重要な関係が導かれます。

「ある行列の逆行列が存在するための条件は、その行列の行列式が0でないことである」

行列式は、その変換が「可逆的」か「不可逆的」かを見分けるための、リトマス試験紙のような役割を果たすのです。


3. AIにおける意味合いとPythonでの計算

深層学習のような現代的なAI技術では、巨大な行列の逆行列を直接計算することは、計算コストが高すぎるため稀です。しかし、これらの概念はAIモデルの「健全性」を理解する上で不可欠です。

行列式が0に近い行列は「悪条件 (ill-conditioned)」であると言われ、モデルの学習が不安定になる原因となります。これは、モデルが学習の過程で、入力データが持つ情報を「押しつぶして」失ってしまうような、冗長または矛盾した特徴を学習してしまったことを示唆します。

それでは、NumPyを使って逆行列と行列式を実際に計算してみましょう。


# NumPyの線形代数(linear algebra)モジュールをインポートします
import numpy as np
from numpy.linalg import inv, det

# 2x2の正方行列を定義します
A = np.array([
    [2, 1],
    [4, 3]
])

# 1. 行列式の計算
det_A = det(A)
print(f"--- 行列式 det(A) ---")
# 2*3 - 1*4 = 2 となるはずです
print(det_A)
# 行列式が0ではないので、この行列には逆行列が存在することがわかります。
print("\n")


# 2. 逆行列の計算
inv_A = inv(A)
print(f"--- 逆行列 A^-1 ---")
print(inv_A)
print("\n")


# 3. 検算:AとA^-1を掛けると単位行列Iになるか確認
# @ は行列の積を計算する演算子です
identity_matrix = A @ inv_A
print(f"--- 検算 A × A^-1 ---")
# コンピュータの浮動小数点計算による微小な誤差を含む場合があります
print(identity_matrix)
# 見やすくするために、非常に小さい値を0に丸めて表示
print("\n丸めた結果:")
print(np.round(identity_matrix))

▼上記コードの実行結果


--- 行列式 det(A) ---
2.0000000000000004

--- 逆行列 A^-1 ---
[[ 1.5 -0.5]
 [-2.   1. ]]

--- 検算 A × A^-1 ---
[[1.00000000e+00 0.00000000e+00]
 [4.44089210e-16 1.00000000e+00]]

丸めた結果:
[[1. 0.]
 [0. 1.]]

まとめ:変換の可逆性と安定性

  • 逆行列 \(A^{-1}\) は、行列\(A\)による変換を元に戻す「逆の変換」です。
  • 行列式 det(A) は、変換によって面積や体積が何倍になるかを示す指標です。
  • det(A) ≠ 0 の場合にのみ、逆行列は存在し、その変換は「可逆」であると言えます。

これらの概念は、ある操作が元に戻せるかどうか、そしてAIモデルの学習プロセスが数値的に安定しているかどうかを評価するための、理論的な背骨となります。

次回は、行列のさらに深い性質を明らかにする「0.2.4: 固有値と固有ベクトル」について学びます。これは、データの本質的な「軸」を見つけ出す強力な手法に繋がります。


参考文献

  1. Strang G. Introduction to Linear Algebra. 5th ed. Wellesley, MA: Wellesley-Cambridge Press; 2016. Chapter 5.
  2. Goodfellow I, Bengio Y, Courville A. Deep Learning. Cambridge, MA: MIT Press; 2016. Chapter 2.
  3. Deisenroth MP, Faisal AA, Ong CS. Mathematics for Machine Learning. Cambridge, UK: Cambridge University Press; 2020. Chapter 4.
  4. Bishop CM. Pattern Recognition and Machine Learning. New York: Springer; 2006. Appendix C.
  5. Poole D. Linear Algebra: A Modern Introduction. 4th ed. Cengage Learning; 2014. Chapter 3.

ご利用規約(免責事項)

当サイト(以下「本サイト」といいます)をご利用になる前に、本ご利用規約(以下「本規約」といいます)をよくお読みください。本サイトを利用された時点で、利用者は本規約の全ての条項に同意したものとみなします。

第1条(目的と情報の性質)

  1. 本サイトは、医療分野におけるAI技術に関する一般的な情報提供および技術的な学習機会の提供を唯一の目的とします。
  2. 本サイトで提供されるすべてのコンテンツ(文章、図表、コード、データセットの紹介等を含みますが、これらに限定されません)は、一般的な学習参考用であり、いかなる場合も医学的な助言、診断、治療、またはこれらに準ずる行為(以下「医行為等」といいます)を提供するものではありません。
  3. 本サイトのコンテンツは、特定の製品、技術、または治療法の有効性、安全性を保証、推奨、または広告・販売促進するものではありません。紹介する技術には研究開発段階のものが含まれており、その臨床応用には、さらなる研究と国内外の規制当局による正式な承認が別途必要です。
  4. 本サイトは、情報提供を目的としたものであり、特定の治療法を推奨するものではありません。健康に関するご懸念やご相談は、必ず専門の医療機関にご相談ください。

第2条(法令等の遵守)
利用者は、本サイトの利用にあたり、医師法、医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(薬機法)、個人情報の保護に関する法律、医療法、医療広告ガイドライン、その他関連する国内外の全ての法令、条例、規則、および各省庁・学会等が定める最新のガイドライン等を、自らの責任において遵守するものとします。これらの適用判断についても、利用者が自ら関係各所に確認するものとし、本サイトは一切の責任を負いません。

第3条(医療行為における責任)

  1. 本サイトで紹介するAI技術・手法は、あくまで研究段階の技術的解説であり、実際の臨床現場での診断・治療を代替、補助、または推奨するものでは一切ありません。
  2. 医行為等に関する最終的な判断、決定、およびそれに伴う一切の責任は、必ず法律上その資格を認められた医療専門家(医師、歯科医師等)が負うものとします。AIによる出力を、資格を有する専門家による独立した検証および判断を経ずに利用することを固く禁じます。
  3. 本サイトの情報に基づくいかなる行為によって利用者または第三者に損害が生じた場合も、本サイト運営者は一切の責任を負いません。実際の臨床判断に際しては、必ず担当の医療専門家にご相談ください。本サイトの利用によって、利用者と本サイト運営者の間に、医師と患者の関係、またはその他いかなる専門的な関係も成立するものではありません。

第4条(情報の正確性・完全性・有用性)

  1. 本サイトは、掲載する情報(数値、事例、ソースコード、ライブラリのバージョン等)の正確性、完全性、網羅性、有用性、特定目的への適合性、その他一切の事項について、何ら保証するものではありません。
  2. 掲載情報は執筆時点のものであり、予告なく変更または削除されることがあります。また、技術の進展、ライブラリの更新等により、情報は古くなる可能性があります。利用者は、必ず自身で公式ドキュメント等の最新情報を確認し、自らの責任で情報を利用するものとします。

第5条(AI生成コンテンツに関する注意事項)
本サイトのコンテンツには、AIによる提案を基に作成された部分が含まれる場合がありますが、公開にあたっては人間による監修・編集を経ています。利用者が生成AI等を用いる際は、ハルシネーション(事実に基づかない情報の生成)やバイアスのリスクが内在することを十分に理解し、その出力を鵜呑みにすることなく、必ず専門家による検証を行うものとします。

第6条(知的財産権)

  1. 本サイトを構成するすべてのコンテンツに関する著作権、商標権、その他一切の知的財産権は、本サイト運営者または正当な権利を有する第三者に帰属します。
  2. 本サイトのコンテンツを引用、転載、複製、改変、その他の二次利用を行う場合は、著作権法その他関連法規を遵守し、必ず出典を明記するとともに、権利者の許諾を得るなど、適切な手続きを自らの責任で行うものとします。

第7条(プライバシー・倫理)
本サイトで紹介または言及されるデータセット等を利用する場合、利用者は当該データセットに付随するライセンス条件および研究倫理指針を厳格に遵守し、個人情報の匿名化や同意取得の確認など、適用される法規制に基づき必要とされるすべての措置を、自らの責任において講じるものとします。

第8条(利用環境)
本サイトで紹介するソースコードやライブラリは、執筆時点で特定のバージョンおよび実行環境(OS、ハードウェア、依存パッケージ等)を前提としています。利用者の環境における動作を保証するものではなく、互換性の問題等に起因するいかなる不利益・損害についても、本サイト運営者は責任を負いません。

第9条(免責事項)

  1. 本サイト運営者は、利用者が本サイトを利用したこと、または利用できなかったことによって生じる一切の損害(直接損害、間接損害、付随的損害、特別損害、懲罰的損害、逸失利益、データの消失、プログラムの毀損等を含みますが、これらに限定されません)について、その原因の如何を問わず、一切の法的責任を負わないものとします。
  2. 本サイトの利用は、学習および研究目的に限定されるものとし、それ以外の目的での利用はご遠慮ください。
  3. 本サイトの利用に関連して、利用者と第三者との間で紛争が生じた場合、利用者は自らの費用と責任においてこれを解決するものとし、本サイト運営者に一切の迷惑または損害を与えないものとします。
  4. 本サイト運営者は、いつでも予告なく本サイトの運営を中断、中止、または内容を変更できるものとし、これによって利用者に生じたいかなる損害についても責任を負いません。

第10条(規約の変更)
本サイト運営者は、必要と判断した場合、利用者の承諾を得ることなく、いつでも本規約を変更することができます。変更後の規約は、本サイト上に掲載された時点で効力を生じるものとし、利用者は変更後の規約に拘束されるものとします。

第11条(準拠法および合意管轄)
本規約の解釈にあたっては、日本法を準拠法とします。本サイトの利用および本規約に関連して生じる一切の紛争については、東京地方裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とします。


For J³, may joy follow you.

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

医師・医学博士・AI研究者・連続起業家
元厚生労働省幹部・ハーバード大学理学修士・ケンブリッジ大学MBA・コロンビア大学行政修士(経済)
岡山大学医学部卒業後、内科・地域医療に従事。厚生労働省で複数室長(医療情報・救急災害・国際展開等)を歴任し、内閣官房・内閣府・文部科学省でも医療政策に携わる。
退官後は、日本大手IT企業や英国VCで新規事業開発・投資を担当し、複数の医療スタートアップを創業。現在は医療AI・デジタル医療機器の開発に取り組むとともに、東京都港区で内科クリニックを開業。
複数大学で教授として教育・研究活動に従事し、医療関係者向け医療AIラボ「Medical AI Nexus」、医療メディア「The Health Choice | 健康の選択」を主宰。
ケンブリッジ大学Associate・社会医学系指導医・専門医・The Royal Society of Medicine Fellow

目次