医療AI開発の壁を打ち破る:2026年個人情報保護法改正がもたらす「要配慮個人情報」利用のパラダイムシフト

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日々の診療や研究において、AI(人工知能)の進化を肌で感じている方も多いのではないでしょうか。画像診断における微小な病変の検出補助、電子カルテの自然言語処理による退院サマリの自動生成、さらには膨大な医療データを用いた新しい創薬ターゲットの探索に至るまで、医療AIは私たちの臨床現場を支える強力なパートナーとなりつつあります。

しかし、どんなに優れたアルゴリズムであっても、質の高い多様な学習データがなければ、AIはその真価を発揮できません。日本の医療AI開発においては、この「データの収集と共有」こそが、法務的・実務的な巨大な壁として立ちはだかっていました。

この状況を打開する新たな法的枠組みとして、2026年7月17日に「個人情報の保護に関する法律等の一部を改正する法律(令和8年法律第56号)」が公布されました。この法改正は、一定の要件を満たすAI開発について、これまで厳重に守られてきた医療データ等の取り扱いに新たな道を開くものです。本記事では、この改正の核心である「統計作成等」の特例について、正確な法解釈と実務への影響を交えながら詳しく紐解いていきます。

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目次

医療AI開発における「データの壁」と実務上の課題

要配慮個人情報とゲノム情報の複雑な扱い

まず前提として、医療現場で日常的に扱う診療録、診断結果、検査結果などは通常、個人情報保護法上の「要配慮個人情報」に該当します。これらは人種、信条、社会的身分、病歴などと同様に、本人の不当な差別や偏見が生じないよう、特に厳格な取り扱いが求められる情報です。なお、近年研究が進むゲノム・遺伝情報については一律に規定されているわけではなく、その内容や識別可能性に応じて、要配慮個人情報として扱われる場合もあれば、特定の個人を識別できる「個人識別符号」を含む個人情報として取り扱われる場合もあります。

「原則同意」と実務上の高いハードル

従来、要配慮個人情報を含む個人データを第三者へ提供する場合、原則として本人からの事前の明確な同意が必要とされてきました。もちろん、従来法でもすべてのケースで同意が求められていたわけではありません。法令に基づく場合や、生命・身体の保護、公衆衛生上特に必要で同意取得が困難な場合、一定の学術研究目的など、複数の法定例外が存在しました。また、院内での統計分析や、個人を特定できないよう加工した匿名加工情報・仮名加工情報の利用、あるいは委託や共同利用といった枠組みを活用する経路もありました。

しかし、高度な医療AIを開発するために、病院が保有する生の医療データを民間企業などの外部組織と共有しようとすると、これらの例外や枠組みには該当しにくいケースが多々ありました。結果として、過去に蓄積された何万、何十万という貴重な症例データについて、研究開発目的での民間との共有に際しては個別の同意取得が求められることが多く、これが現場にとって極めて重い実務上の課題となっていたのです。

スケーリング則が示すデータ量の重要性

なぜ、これほどまでに大量のデータが必要なのでしょうか。ここで、機械学習における「スケーリング則(Scaling Law)」という重要な経験則に触れておきます。ディープラーニングのモデルにおいて、学習に用いるデータ量 \(N\) に対して、モデルの予測誤差 \(E\) は概ね次のような関係を持つことが知られています。

\[ E(N) \approx \alpha N^{-\beta} \]

(ここで、\(\alpha\) と \(\beta\) はモデルの構造やタスクに依存する正の定数です。)

この式が示すのは、データ量 \(N\) の増加に伴って、AIの予測誤差がべき乗則に従って低下していくということです。ただし、データを追加したときの限界的な改善幅は次第に小さくなっていきます。実際の医療AI開発では、単なるデータの「量」だけでなく、ラベルの正確性、症例の多様性、施設間の分布の違い(分布シフト)なども性能を大きく左右しますが、それでも圧倒的なデータ量の不足は、AIの精度向上において致命的なハンデとなります。「このまま実務上の壁によってデータの流動性が阻害され続ければ、日本の医療AI開発は世界のスピードに遅れをとってしまう」という産業界やアカデミアの強い危機感が、今回の法改正の原動力となりました。

2026年改正の核心:「統計作成等」の特例と一定のAI開発への適用

2026年の改正法が創設したのは、正確には「統計作成等」の特例です。この点を誤解してはなりません。「医療AI開発であれば、カルテなどを広く本人の同意なしで利用・提供できるようになった」という認識は、法的にクリティカルな誤りです。

法令上の「統計作成等」とは、おおむね「多数の者の情報から傾向や特性を把握すること」であり、「成果物が特定個人に関する情報を含まないこと」、そして「個人の権利利益を害するおそれが少ないものとして個人情報保護委員会規則で定められる要件を満たす行為」を指します。個人情報保護委員会も、この特例の対象となるのはAI開発一般ではなく、「統計作成等に整理できるAI開発」であると明言しています。

この特例には、大きく分けて性質の異なる二つのルートが用意されています。

特例のルート適用されるシチュエーションの例主な特徴と要件
① 公開されている要配慮個人情報の「取得」学会の公開抄録やウェブサイト上で合法的に公表されている要配慮個人情報を収集し、AIに学習させる場合。すでにある程度公にされている情報を「統計作成等」の目的で取得する場合に、同意取得を不要とするもの。
② 医療機関等から開発企業への「第三者提供」病院のサーバー内に保存されている非公開の医療データを、AI開発企業へ提供して学習用データセットとして用いる場合。提供先における利用目的の全部が「統計作成等」であること。公表義務や書面合意など、厳格なプロセスが必須。

この法改正の最大の意義は、従来、法定例外に該当しにくかった異なる事業者間(例えば病院と民間AI企業間)の非公開医療データの共有において、統計作成等に限定した新たな「同意不要の法的経路」が設けられた点にあります。

安全とプライバシーを守るための厳格なルール

所定の要件を満たす範囲で新たなデータ活用の道が開かれましたが、それは無条件の自由を意味するものではありません。特例の適用には、患者さんのプライバシー保護と倫理的妥当性を担保するための厳格なハードルが課されています。

1. 特定個人への不利益な利用の禁止

今回の特例は「統計作成等」という概念で判断されるため、必ずしも公衆衛生目的や非営利の学術目的に限定されず、要件を満たせば営利企業による開発であっても対象となる可能性があります。しかし、提供された個人データを、特定個人への勧誘、審査、評価などに利用することは、この特例では絶対に認められません。例えば、学習用に提供されたデータを流用して、特定の患者に対するダイレクトマーケティングを行ったり、保険の加入審査や与信判断に用いたりすることは明らかな目的外利用となります。

2. 双方に課される事前・継続的な公表義務

データ共有の透明性を確保するため、データの提供元(医療機関など)だけでなく、提供を受ける側(AI開発企業など)の双方に、利用目的その他の事項に関する公表義務が課されます。提供先は、個人データを取り扱っている期間中、これらの法定事項を継続して社会に公表しなければなりません。具体的な公表事項や公表の方法については、今後制定される個人情報保護委員会規則等をしっかりと確認していく必要があります。

3. 書面による合意と管理体制の構築

第三者提供の特例を用いる場合、それが統計作成等に基づく提供であることについて、提供者と受領者の間で書面等による合意が求められます。実務においては、単に「同意します」と交わすだけでなく、利用範囲の厳密な定義、再提供の禁止、プロジェクト終了時のデータの削除・返却規定、アクセス制御、漏えい時の対応フロー、さらには提供元による監査権限などを契約にしっかりと盛り込み、ガバナンスを効かせた設計を行うことが不可欠です。

医療現場への示唆と今後の展望

法務面で特に留意すべきは、今回の法改正が「個人情報保護法上の手続き」に関するものであるという点です。個人情報保護法上の本人同意が特例によって不要となる場合であっても、医療現場の研究開発にかかるすべての規制が免除されるわけではありません。

医学系研究を行う際には、「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」や「臨床研究法」への準拠が引き続き求められます。院内の倫理審査委員会(IRB)での承認手続きや、適切なオプトアウトの実施、さらには医師法等に基づく医療機関の守秘義務、診療情報の取扱いに関するガイダンスなど、医療独自の倫理的・法的規律を総合的に遵守する必要があります。

改正法は2026年7月17日に公布され、統計作成等の特例を含む主要規定は、公布の日から2年以内の政令で定める日に施行されることになっています。具体的な施行日は現時点では確定していませんが、法律の枠組みが示された今、私たち医療従事者や研究機関は準備を始めるべき時期に来ています。

次世代の医療AIがもたらす恩恵をいち早く患者さんに届けるために。そして同時に、提供されるデータの価値を最大限に引き出しつつ、患者さんの尊厳とプライバシーを厳格に保護するために。院内のデータ管理体制の再構築や、契約プロセスの整備、そして何より患者さんに対する透明性の確保に向けて、専門家を交えた議論を今から深めていくことが求められています。

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参考文献

  • Kaissis, G. A., Makowski, M. R., Rückert, D. and Braren, R. F., 2021. Secure, privacy-preserving and federated machine learning in medical imaging. Nature Machine Intelligence, 2(6), pp.305-311.
  • Kaplan, J., McCandlish, S., Henighan, T., Brown, T. B., Chess, B., Child, R., Gray, S., Radford, A., Wu, J. and Amodei, D., 2020. Scaling Laws for Neural Language Models. arXiv preprint arXiv:2001.08361.
  • 参議院, 2026. 議案審議情報(令和8年法律第56号)【日本語】. 参議院ウェブサイト.
  • 内閣官房・個人情報保護委員会, 2026a. 個人情報の保護に関する法律等の一部を改正する法律案(概要)【日本語】. 個人情報保護委員会.
  • 内閣官房・個人情報保護委員会, 2026b. 個人情報保護法等の一部を改正する法律案について【日本語】. 個人情報保護委員会.
  • 文部科学省・厚生労働省・経済産業省, 2023. 人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針(令和5年一部改正)【日本語】. 文部科学省.

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この記事を書いた人

AI医師科学者芸人・医学博士・連続起業家・元厚生労働省医系技官
ハーバード大学理学修士・ケンブリッジ大学MBA・コロンビア大学行政修士
岡山大学医学部卒業後、内科・地域医療に従事。厚生労働省で複数室長(医療情報・救急災害・国際展開等)を歴任し、内閣官房・内閣府・文部科学省でも医療政策に携わる。
退官後は、日本大手IT企業や英国VCで新規事業開発・投資を担当し、複数の医療スタートアップを創業。現在は医療AI・デジタル医療機器の開発に取り組むとともに、東京都港区で内科クリニックを開業。
複数大学で教授として教育・研究活動に従事し、医療者向けAIラボ「Medical AI Nexus」、医療メディア「The Health Choice | 健康の選択」、美・医・食ポータル「Food Connoisseur」を主宰。
ケンブリッジ大学Associate・社会医学系指導医・専門医・The Royal Society of Medicine Fellow

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