[Clinical AI Coding 100 : C78.9] 想像の中で学ぶAI:ワールドモデルとモデルベース強化学習の仕組みと数理

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自転車に乗る練習をするとき、私たちは何度も転んで痛い思いをしながらバランスの取り方を体で覚えます。しかし、車の運転で「崖から落ちたらどうなるか」を現実で試す人はいません。「ハンドルを切り損ねたら落ちるだろう」と頭の中で想像し、あらかじめ危険を避ける行動を計画します。行動の結果を予測する心の働きが、私たちの安全な学習を支えています。

人工知能(AI)における「強化学習」は、長らく自転車の練習と同じ方法に頼ってきました。行動を起こし、うまくいけば報酬を与えられ、失敗すれば罰を受ける。この現実世界での試行錯誤を何百万回も繰り返す手法は「モデルフリー強化学習」と呼ばれ、ゲームやシミュレータの中では目覚ましい成果を挙げました。しかし、医療現場で患者に「試行錯誤の治療」を行うことは倫理的に許されません。また、ロボットを現実空間で何度も転ばせれば、学習が終わる前に機体が壊れてしまいます。

現実での失敗コストが高すぎる領域において、AIにも「頭の中の想像」で学習させるアプローチが求められるようになりました。これが「ワールドモデル」を用いた「モデルベース強化学習」です。

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目次

現実の試行錯誤から、想像の中のシミュレーションへ

私たちが初めて自転車に乗る練習をしたときのことを思い出してみてください。何度も転んで擦りむきながら、体を傾ける角度やペダルを踏む強さを感覚として掴んでいったはずです。これまでの人工知能(AI)における強化学習も、基本的にはこれと同じアプローチをとってきました。行動を起こし、うまくいけば報酬を受け取り、失敗すれば罰を受ける。この現実世界での「試行錯誤」を何百万回と繰り返す手法は「モデルフリー強化学習」と呼ばれ、囲碁やビデオゲームといったシミュレータの中では目覚ましい成果を挙げました (Sutton and Barto 2018)。

しかし、この方法には決定的な弱点があります。それは、失敗が許されない現実の環境、とりわけ医療の現場には到底適用できないということです。患者の命を預かる臨床の場で、AIに「とりあえずこの未承認薬を投与して様子を見てみよう」といった無作為な試行錯誤をさせることは、倫理的にも法的にも絶対に許されません。また、ロボット工学の分野でも、AIが歩き方を覚えるために実機を何度も転ばせていては、学習が完了する前に高価なハードウェアが壊れてしまいます。

そこで必要になるのが、「行動する前に、頭の中で結果を想像する」能力です。私たち人間は、「崖に向かってハンドルを切ったらどうなるか」をわざわざ現実で試したりはしません。過去の経験から世界の物理法則を理解し、頭の中のシミュレータで結果を予測し、危険を未然に回避します。AIにこの「想像の力」を持たせようとする試みの中核にあるのが、「ワールドモデル」と呼ばれる技術です。

世界の変化を内部で再現する:ワールドモデルの仕組み

ワールドモデルとは、一言で言えば「世界がどのように動いているか」という因果の連鎖を模倣する内部シミュレータのことです。AIは、「現在の状態」において「ある行動」をとったとき、「次の瞬間に世界がどう変化し」「どのような結果(報酬やペナルティ)が得られるか」を予測する法則を学習します。

歴史を遡ると、この画期的なアイデアは「Dyna(ダイナ)アーキテクチャ」として古くから提唱されていました (Sutton 1990)。Dynaの考え方は非常に直感的でありながら、学習の効率を根底から覆すものでした。まず、AIは現実世界でごくわずかな行動だけを起こし、集めた少量のデータから世界の変化の法則(モデル)を学習します。その後、AIは一旦現実での行動を止め、学習した法則を使って自分の頭の中で「もしここでこう動いたら、次はこうなるだろう」という仮想の経験を大量に生成します。

この頭の中で作られた経験は「モデル生成経験」と呼ばれます。現実の試行錯誤に頼らず、想像の中で行動方針を最適化することで、現実世界で必要となるデータ量を劇的に減らすことができます。これを専門用語で「データ効率を高める」と表現しますが、医療の文脈に置き換えれば、「少人数の過去の症例データから法則を見いだし、頭の中で何万人もの仮想患者を作り出してシミュレーションを行う」ことに他なりません。

夢の中で学習するAI:Dreamerの進化とブレイクスルー

深層学習を用いて精緻なワールドモデルを構築し、完全に想像の中だけでAIを訓練する。このアプローチを決定づけ、現在に至るまで進化を牽引しているのが「Dreamer(ドリーマー)」と呼ばれる一連の研究アーキテクチャです。Dreamerは初期構想から数年の間にバージョン1から最新のDreamer 4(V4)へと急速な進化を遂げ、ワールドモデルが世界をどう「認識」し「計算」すべきかについてのパラダイムを根本から書き換えてきました。

もしこの最先端の技術を医療の仮想患者モデルへ適用するならば、Dreamerが各バージョンで何を克服してきたのかを知ることは不可欠です。その進化の軌跡は、そのまま「現実の複雑さにどう立ち向かうか」という数理的な歴史でもあります。

DreamerV1:潜在空間での「夢」の誕生(連続空間)

初代Dreamerの最大の功績は、環境から受け取る複雑な情報(例えばゲームのピクセル画像や、医療であれば数十種類の時系列バイタルデータ)を、本質的な特徴だけを抽出した「潜在状態(Latent State)」と呼ばれるコンパクトな情報の塊に圧縮して記憶したことです (Hafner et al. 2020)。

高解像度の画像をそのまま予測しようとすると、計算量が爆発するだけでなく、「背景の雲の形」のような本質的でないノイズまで学習してしまいます。DreamerV1は、RSSM(Recurrent State Space Model)と呼ばれるアーキテクチャを用い、過去の記憶と現在の観測を統合して、連続的な実数値のベクトルとして世界を要約しました。そして、行動を決定するActorと価値を評価するCriticを、現実世界ではなくこの「潜在空間の夢」の中だけで訓練させることに成功したのです。

DreamerV2:離散化による「概念」の獲得(カテゴリカル変数)

しかし、現実世界(あるいは人体の変化)は、滑らかに連続して変化するものばかりではありません。「良性から悪性に変わる」「意識がある状態から昏睡状態に陥る」といった、不連続で決定的な状態のジャンプが頻繁に発生します。

初代のような連続的な実数ベクトルで世界を表現しようとすると、こうした「状態の急激な変化」をうまく捉えきれず、予測が平均化されてぼやけてしまうという弱点がありました。そこでDreamerV2は、世界を認識する方法を根本から変え、潜在状態を「複数のカテゴリ(離散値)の組み合わせ」として表現するようにしました (Hafner et al. 2021)。

たとえば「32個の選択肢を持つ変数が32個ある」というようなデジタルな表現形式です。これは、人間が「熱がある・ない」「ステージI・II・III」のように状態をラベル付けして概念化するプロセスに極めて近く、予測のノイズやぼやけを劇的に減らす効果をもたらしました。

DreamerV3:極端な異常値を押さえ込む万能のスケール(Symlog変換)

続くDreamerV3では、アルゴリズムがさまざまなタスクに汎用的に適応するための決定的な数学的ブレイクスルーが導入されました。それが「Symlog(Symmetric Logarithm:対称対数)変換」によるスケーリングです (Hafner et al. 2023)。

この変換がなぜ医療応用においても致命的に重要になるのか、数式を展開して詳しく読み解いていきましょう。

ステップ1:動機 — なぜこの式が必要になったのか
医療データや現実世界の報酬は、その「桁(スケール)」が指標によって全く異なります。体温の変化は数度の範囲に収まりますが、肝機能を示すAST・ALTといった酵素の数値は、正常時の数十から、重症肝炎の際には数千、数万へと跳ね上がります。損失(ペナルティ)についても、「軽い副作用」と「死亡」では数値的な重みが何万倍も異なります。
従来のAIは、このような巨大な異常値(外れ値)を入力されると、ニューラルネットワークの計算の途中で勾配(数値の傾き)が爆発してしまい、学習が完全に崩壊してしまいました。すべての数値を一定の範囲に収めるために、人間がデータごとに手作業でパラメータを調整しなければなりませんでしたが、これでは未知の疾患モデルに対応できません。そこで、「ゼロ付近の小さな変化はそのまま保ちつつ、何万という巨大な外れ値は滑らかに圧縮する」という魔法のような変換式が求められたのです。

ステップ2:言葉の式
入力された数値を圧縮するために、対数(ログ)を使います。ただし、通常の対数はゼロやマイナスの値を入れると計算が壊れてしまいます。そこで、入力がプラスであれマイナスであれ、一旦「絶対値」をとって1を足してから対数で圧縮し、最後に元の「プラスマイナスの符号」を付け直す、という操作を行います。
変換後の値 = (元の値のプラスマイナスの符号) × 自然対数( 元の値の絶対値 + 1 )

ステップ3:記号の式
これを数学の関数として定義したのが、DreamerV3の根幹を支えるSymlog変換関数です。

\[ \operatorname{symlog}(x) = \underbrace{ \operatorname{sign}(x) }_{\text{符号の保存}} \underbrace{ \ln( |x| + 1 ) }_{\text{桁数の圧縮}} \]

ステップ4:記号辞書

記号読み方意味型・範囲今回の例での値
\( x \)エックス変換したい元の数値(報酬、状態価値、検査値など)。スカラー(実数全体)\( 148 \) または \( -20 \)
\( \operatorname{symlog}(x) \)シムログ・オブ・エックスSymlog変換された後の、圧縮された数値。スカラー(実数全体)計算して求める
\( \operatorname{sign}(x) \)サイン(符号関数)元の値がプラスなら \( 1 \)、マイナスなら \( -1 \)、ゼロなら \( 0 \) を返す関数。\( \{ -1, 0, 1 \} \)\( 1 \) または \( -1 \)
\( \ln \)ナチュラル・ログ自然対数(ネイピア数 \( e \) を底とする対数)。桁数をなだらかに圧縮する役割を持つ。演算子–
\( |x| \)絶対値プラスマイナスの符号を取り払った、大きさそのもの。\( 0 \) 以上の実数\( 148 \) または \( 20 \)

ステップ5:読み下し
シムログ・オブ・エックス は、エックスの絶対値にイチを足したものの自然対数をとり、そこにエックスの符号を掛け合わせたものである。
要するに、「プラスマイナスの向きはそのままにして、数字の桁数(大きさ)だけを対数によって緩やかに丸め込む」式です。

ステップ6:分解
計算は内側から外側へ、次の順序で行われます。

  1. 絶対値と底上げ(\( |x| + 1 \)): まず、入力された値のマイナスを消して絶対値にします。そこに必ず \( 1 \) を足します。対数 \( \ln(0) \) はマイナス無限大に発散して計算が壊れてしまうため、この \( +1 \) が安全装置として働きます。
  2. 桁数の圧縮(\( \ln \)): 次に、その値の自然対数をとります。対数は「10,000」のような巨大な数字を「9.2」程度にまで強力に圧縮します。
  3. 符号の復元(\( \operatorname{sign}(x) \)): 最後に、元の数字が持っていたプラスマイナスの向きを掛け合わせます。プラスの利益はプラスのまま、マイナスの損失はマイナスのまま圧縮されます。

ステップ7:数値実演
医療現場の異常値を想定し、極端に高い報酬(肝機能の劇的な改善を示すスコア \( x = 148 \))と、急激な損失(血圧の危険な低下ペナルティ \( x = -20 \))の2つを処理する様子を計算してみましょう(自然対数 \( \ln \) の値は近似値を用います)。

ケース1:極端にプラスの数値(\( x = 148 \))を圧縮する

\[ \begin{aligned} \operatorname{symlog}(148) &= \operatorname{sign}(148) \times \ln( |148| + 1 ) \\ &= 1 \times \ln(149) \\ &\approx 1 \times 5.00 \\ &= 5.00 \end{aligned} \]

ケース2:マイナスの数値(\( x = -20 \))を圧縮する

\[ \begin{aligned} \operatorname{symlog}(-20) &= \operatorname{sign}(-20) \times \ln( |-20| + 1 ) \\ &= -1 \times \ln(20 + 1) \\ &= -1 \times \ln(21) \\ &\approx -1 \times 3.04 \\ &= -3.04 \end{aligned} \]

元の数値は「148」と「-20」という桁の異なる暴れ馬でしたが、Symlog変換を通すことで「5.00」と「-3.04」という、AIのニューラルネットワークが非常に学習しやすい穏やかなスケールに収まりました。

ステップ8:直感・限界・意味
対数を使うことで、小さな値の周辺(0付近)の繊細な変化は感度高く保ちつつ、巨大な外れ値に対しては「単なる大きな値」として感度を鈍らせることができます。ただし、微小な差が決定的な意味を持つような変数(血液のpHの微細な変化など)に対して安易に適用すると、丸め込みによってそのコントラストが失われる限界もあります。
この変換をネットワークのあらゆる入出力に組み込んだことで、DreamerV3は人間が手作業でパラメータを調整することなく、多様なタスクをひとつの同じアルゴリズムで学習できるようになりました。これは、疾患ごとにデータの桁や単位がバラバラである医療応用において、「チューニングなしでそのまま患者モデルに適用できる基盤」を獲得したことを意味します。

Dreamer 4:オフラインデータとTransformerが拓く「究極の仮想世界」

そして2025年後半、Danijar Hafnerらのチームはワールドモデルのアーキテクチャを根本から刷新した最新の「Dreamer 4(DreamerV4)」を発表しました (Hafner et al. 2025)。

これまでのバージョンは、AIが自分で行動を起こして環境を試す「オンライン探索」にある程度依存していました。しかしDreamer 4は、効率的なTransformer(トランスフォーマー)アーキテクチャと新しい目的関数(Shortcut forcing)を導入することで、単一のGPU上でリアルタイムかつ極めて高精度な推論を可能にしました。その結果、AIは自ら環境と相互作用することなく、過去のビデオや行動記録といった「オフラインデータ」を観察するだけで、複雑な世界の物理法則とオブジェクト間の相互作用を完璧にモデリングできるようになりました。

実際にDreamer 4は、複雑なビデオゲーム(Minecraft)において、環境での試行錯誤を一切行わずにオフラインデータのみから学習し、20,000手以上の行動選択が必要な「ダイヤモンドを獲得する」という超長期的なタスクを初めて達成しました。

この「オフラインデータだけで世界を理解し、長期間の計画を立てる」というブレイクスルーは、医療AIにとって決定的な意味を持ちます。なぜなら医療現場では、AIに「とりあえず患者に薬を投与して様子を見させる(オンライン探索)」ことは絶対に許されず、過去の電子カルテや観察データ(オフラインデータ)だけを頼りに学習しなければならないからです。

進化がもたらす医療デジタルツインへの展望

初代からDreamer 4へと至る進化——連続から離散への概念獲得、Symlogによるスケールの制覇、そしてTransformerを用いた完全なオフライン学習——は、そのまま「AIが物理世界と人間の身体の複雑さに耐えうる強靭さを手に入れたプロセス」です。

この最新の世界認識アーキテクチャを活用することで、膨大な電子カルテやマルチモーダルな医療データから、個々の患者の未来を正確に予測する「医療用ワールドモデル」の構築が現実味を帯びています。AIが患者の病状の遷移を深く理解し、巨大なバイタルサインの変動にも学習を破綻させることなく、頭の中の「夢」で無数の治療計画を安全にテストする。Dreamerのもたらしたアルゴリズムの成熟は、私たちが究極の個別化医療へと向かうための、最も強力なエンジンのひとつとなっています。

無限の「仮想患者」による治療の最適化

このワールドモデルの概念は、医療分野に計り知れないパラダイムシフトをもたらす可能性を秘めています。現実世界を生きる患者のデータは常に限られており、未知の治療プロトコルを無闇に試すことはできません。しかし、過去の膨大なカルテデータから高精度なワールドモデルを構築できれば、そのモデルは患者一人ひとりの生理学的な変化を予測する「デジタルツイン」として機能します (Corral-Acero et al. 2020)。

たとえば、刻一刻と状態が悪化する敗血症の患者に対して、どのタイミングで昇圧剤を投与し、どの程度の輸液を行うべきか。熟練の集中治療医であっても判断に迷うような状況において、ワールドモデルは「もし今、この薬を投与したら血圧はどう反応し、臓器障害のリスクはどうなるか」を数千パターンにわたって瞬時に想像の中で展開(ロールアウト)します。そして、患者にとって最も予後が良くなる安全な道筋を提示してくれるのです。

AIが仮想空間で患者の未来を試し、最善の治療方針を導き出す。この画期的なアプローチは、倫理的な制約とデータ不足に悩まされてきた医療AIの開発において、もっとも重要な鍵となるでしょう。

では、このAIの頭の中で行われている「想像の中での評価」は、数学的にどのように計算されているのでしょうか。

モデルフリー強化学習とモデルベース強化学習の違い
「何がフリーで、何がベースなのか?」

強化学習を勉強していると、かなり早い段階で「モデルフリー強化学習(Model-Free Reinforcement Learning)」と「モデルベース強化学習(Model-Based Reinforcement Learning)」という言葉が出てきます。ところが、この名前は少し紛らわしいものです。「モデルフリーということは、AIモデルを使わないのか?」「モデルベースということは、大規模言語モデルのようなAIモデルを使うという意味なのか?」と考えてしまうかもしれませんが、どちらも違います。

ここでいう「モデル」とは、ニューラルネットワークなどのAIモデルではありません。強化学習における「環境がどのように動くかを表すモデル」のことです。

モデルフリー強化学習とは、「環境がどう動くか」というモデルを明示的に利用せず、経験から直接「何をすればよいか」を学ぶ方法です。一方、モデルベース強化学習とは、「環境がどう動くか」というモデルを利用して未来を予測し、その予測をもとに「何をすればよいか」を決める方法です。

「Free」と「Based」は、何を指しているのか?

名前の意味をそのまま分解すると、非常に分かりやすくなります。Model-Freeの「Free」は、環境モデルを意思決定に使うことからFreeという意味です。一方、Model-Basedの「Based」は、環境モデルに基づいて意思決定するという意味です。

名称意味
Model-Free環境モデルを明示的に利用せずに学習する
Model-Based環境モデルに基づいて予測・意思決定する

つまり、「何からFreeなのか?」の答えは「環境モデルから」であり、「何にBasedなのか?」の答えは「環境モデルに」です。この一点を理解すると、両者の違いはかなり整理できます。

そもそも「環境モデル」とは何か?

強化学習では、AIであるエージェントが、ある状態で行動を選択します。現在の状態を \(s_t\)、行動を \(a_t\) とすると、環境から次の状態 \(s_{t+1}\) と報酬 \(r_t\) が返ってきます。

\[ s_t \xrightarrow{a_t} (s_{t+1}, r_t) \]

例えば迷路なら、「現在ここにいる」という状態で「右へ進む」という行動を選ぶと、「右隣のマスに移動する」という次の状態が生じ、場合によっては「ゴールに近づいた」という報酬が得られます。この「この状態で、この行動をしたら、次に何が起こるのか?」を表現するものが環境モデルです。

代表的には、状態遷移を次のように表します。

\[ P(s_{t+1} \mid s_t,a_t) \]

これは、「状態 \(s_t\) で行動 \(a_t\) を選んだとき、次の状態 \(s_{t+1}\) になる確率」を意味します。また、どの程度の報酬が得られるかを表す報酬モデルも考えることができます。

\[ R(s_t,a_t) \]

つまり環境モデルとは、大ざっぱに言えば、「この世界で、こうしたら、次にどうなるか」を予測する仕組みです。

モデルフリー強化学習:「経験から直接学ぶ」

モデルフリー強化学習では、「世界がどう変化するか」という環境モデルを明示的に利用して意思決定しません。代わりに、実際に行動し、その結果として得られた経験から、「この状況では、この行動をすると良さそうだ」ということを直接学習します。

例えば、迷路を何度も歩いた結果、「この場所では右へ進むとゴールに到達しやすい」と学習したとします。このAIは、「右へ進むと次のマスはここになり、その次に左へ進むと……」と世界の未来を逐一シミュレーションする必要はありません。「この状態では右が良い」という価値や方策を経験から直接学べばよいのです。

Q値を直接学ぶ

代表的な方法の一つが、行動価値関数 \(Q(s,a)\) を学習する方法です。これは簡単に言えば、「状態 \(s\) で行動 \(a\) を選んだら、長期的にどのくらい得をするか」を表します。

\[ Q(s,a) \]

モデルフリー強化学習では、「その行動の後に世界がどう変化するか」という環境モデルを構築して未来を計算しなくても、この \(Q(s,a)\) を経験から直接学習できます。Q-learning、SARSA、DQNなどは、この考え方を理解する代表的な例です。

モデルベース強化学習:「未来を予測してから決める」

一方、モデルベース強化学習では、環境がどのように変化するかというモデルを利用します。例えば、現在の状態から行動Aと行動Bを選べる場合、「行動Aをすると何が起こるか?」「行動Bをすると何が起こるか?」を環境モデルによって予測できます。

例えば、「行動A → 状態A → 次の行動 → 状態A2 → 高い報酬」と「行動B → 状態B → 次の行動 → 状態B2 → 低い報酬」という未来を内部的にシミュレーションできれば、実際に試す前に「行動Aの方が良さそうだ」と判断できます。

モデルベース強化学習は、「実際にやってみる前に、頭の中で未来を試してみる」ことができる強化学習と考えると分かりやすいでしょう。

「地図を持っているか」で考えると分かりやすい

モデルフリーとモデルベースの違いは、知らない街を歩く場面に例えると直感的です。

モデルフリーの場合

何度も街を歩いているうちに、「駅に行きたいなら、この交差点では右へ曲がるとうまくいく」という経験則を覚えていきます。街全体の構造を理解していなくても、十分な経験を積めば目的地へ到達できます。

モデルベースの場合

一方、地図を持っていれば、「ここを右へ曲がるとこの道路に入り、次に左へ曲がれば駅へ着く」と、実際に歩く前に未来のルートを考えることができます。この「地図」に相当するものが環境モデルです。

比較項目モデルフリーモデルベース
基本的な考え方経験から直接学ぶ世界を予測してから決める
環境モデル明示的に利用しない利用する
未来のシミュレーション基本的には行わない行うことができる
直感的なたとえ経験則で道を覚える地図を見て道を考える
経験・データ効率多くの経験が必要になりやすいモデルを活用して経験を有効利用しやすい
主な難しさ試行錯誤が多くなりやすい正確な環境モデルを作ることが難しい

医療で考えると、さらに分かりやすい

例えば、ある患者に対して治療Aと治療Bのどちらを選ぶべきかを学習するAIを考えてみます。

モデルフリー型

モデルフリー型では、多数の経験から「こういう状態の患者では治療Aを選んだ方が、最終的な結果が良かった」という関係を学習します。患者の身体が時間とともにどのように変化するのかを再現するモデルを作らなくても、治療方針と長期的な結果の関係を直接学ぶことができます。

モデルベース型

モデルベース型では、さらに「この患者に治療Aをすると血圧はどう変化するか?」「その後、腎機能はどうなるか?」「さらに次の治療を行ったらどうなるか?」という患者状態の変化を予測します。そのうえで、「治療A → 患者状態A → 次の治療 → 患者状態A2」と「治療B → 患者状態B → 次の治療 → 患者状態B2」といった複数の未来を比較し、より良い結果につながる行動を選択します。

もちろん実際の医療では、安全性、因果推論、観察データのバイアス、未観測交絡、モデルの外的妥当性など多くの問題があり、このような単純な形で臨床判断をAIに任せられるわけではありません。しかし、モデルフリーとモデルベースの思想の違いを理解する例としては分かりやすいでしょう。

モデルフリーでも「AIモデル」は使う

ここは特に誤解されやすい重要なポイントです。「モデルフリー」という名前は、「ニューラルネットワークなどのモデルを使わない」という意味ではありません。例えばDQNでは、Q値を推定するためにニューラルネットワークを使います。それでもDQNはモデルフリー強化学習に分類されます。

なぜなら、ニューラルネットワークは使っていても、それを「この行動をすると次に世界がどう変化するか」という環境モデルとして意思決定に使っているわけではないからです。

モデルフリー ≠ AIモデルを使わない
モデルフリー = 意思決定のために環境の遷移モデルを明示的に利用しない

モデルベースの「モデル」は最初から与えられているのか?

必ずしもそうではありません。モデルベース強化学習には、環境モデルが最初から分かっている場合と、環境モデルそのものをデータから学習する場合があります。ゲームやシミュレーターのように環境のルールが既知なら、そのルールをモデルとして利用できます。一方、ルールが分からない場合には、AIが経験から「この状態でこの行動をすると、次はこうなりそうだ」という予測モデルそのものを学習できます。

後者の考え方は、現在注目されているワールドモデル(World Model)とも深く関係しています。

ワールドモデルとの関係

ワールドモデルとは、AIが外界について内部的なモデルを作り、その中で未来を予測する考え方です。例えば、現在の状態を \(z_t\)、行動を \(a_t\) とすると、次のようなモデルを学習できます。

\[ p_\theta(z_{t+1} \mid z_t,a_t) \]

これは「今この状態で、この行動をしたら、次はどうなるだろう?」を予測するモデルです。さらに予測を繰り返せば、

\[ z_t \rightarrow z_{t+1} \rightarrow z_{t+2} \rightarrow z_{t+3} \]

と、現実世界で実際に行動しなくても、内部モデルの中で複数ステップ先まで未来を展開できます。これはモデルベース強化学習の中心的な発想と非常に近いものです。言い換えれば、モデルベース強化学習の大きな魅力は、現実世界で試行錯誤するだけでなく、「想像の中で試行錯誤する」ことができる点にあります。

では、モデルベースの方が常に優れているのか?

そう単純ではありません。モデルベース強化学習には大きな魅力がありますが、環境モデルが間違っていれば、未来予測も間違うという重大な問題があります。1ステップ先では小さな誤差でも、何ステップも未来を予測すると誤差が積み重なり、大きくなる可能性があります。

するとAIは、現実には存在しない「都合のよい未来」を内部シミュレーションの中で作り、それを信じて行動してしまうかもしれません。一方、モデルフリー強化学習は、世界そのものを正確に再現するという難しい課題を避け、経験から価値や方策を直接学習できます。そのため、どちらが絶対的に優れているというものではありません。

実際には「モデルフリー対モデルベース」という二者択一ではない

現代の強化学習では、モデルフリーとモデルベースを完全に分離して考えられないケースもあります。環境モデルを使って仮想的な経験を生成し、その経験を使ってモデルフリー型の価値関数や方策を改善することも可能です。

つまり、「現実で経験する → 世界のモデルを学ぶ → モデルの中で未来をシミュレーションする → 現実の行動方策を改善する」という組み合わせもできます。したがって、モデルフリーとモデルベースは単なる対立概念というより、「AIが意思決定するとき、世界の予測モデルをどのように利用するのか」という設計思想の違いとして考えると理解しやすいでしょう。

まとめ:「何がフリーで、何がベース?」

疑問答え
Model-Freeの「Free」とは?環境モデルを明示的に利用することからFree
Model-Basedの「Based」とは?環境モデルに基づいて意思決定するという意味
ここでいうモデルとは?「この行動をしたら次に何が起こるか」を表す環境モデル
モデルフリーはAIモデルを使わない?いいえ。ニューラルネットワークなどは普通に使う
モデルフリーは何を学ぶ?価値関数や方策など、「何をすればよいか」を経験から直接学ぶ
モデルベースは何をする?環境の変化を予測し、未来をシミュレーションして行動を選ぶ
ワールドモデルとの関係は?世界の内部モデルを使って未来を予測するという点で深く関係する

モデルフリーは「経験から直接学ぶ」。モデルベースは「世界を予測してから決める」。

そして、「モデル」という言葉が指しているのはAIそのものではなく、「世界がどう動くかという環境のモデル」です。この違いが分かれば、モデルベース強化学習、ワールドモデル、プランニング、さらには「AIが頭の中で未来をシミュレーションして学習する」という考え方まで、一つの流れとして理解しやすくなります。

価値を見積もる:頭の中のシミュレーションを数式で表す

AIが複数の選択肢の中から「最善の行動」を見つけ出すためには、それぞれの行動の先にある未来を比較できなければなりません。そのために、「今の状態にいることが、将来にわたってどれくらい良い結果をもたらすか」を定量的な数値に落とし込む必要があります。強化学習の分野では、この数値を「状態価値(State Value)」と呼びます。

将棋やチェスに例えるなら、現在の盤面の形勢判断のようなものです。「今すぐ相手の駒を取れる(目先の見返り)」だけでなく、「数手後に自分がチェックメイトされる危険はないか(未来のリスク)」までを見通して、その盤面全体の良し悪しを点数化する作業に似ています。

モデルベース強化学習において、AIが過去のデータから構築したワールドモデル(内部シミュレータ)を使って、この状態価値をどのように計算しているのか。その核心となる数式を、ステップを追って丁寧に読み解いていきましょう。

ステップ1:動機 — なぜこの式が必要になったのか

医療現場において、投薬や手術といった治療方針の決定は不可逆です。「実際に試してみて、うまくいかなかったら時間を巻き戻して別の薬に変える」といったことは不可能です。また、治療の最終的な結果(完治や病状の安定)が判明するまでには、数週間から数年の時間がかかります。

だからこそ、現実世界で行動を起こす前に、過去のデータから法則を学んだ「ワールドモデル」に未来を予測させ、頭の中で将来の価値を確実に見積もる道具がどうしても必要になります。この計算式さえあれば、AIは無数にある治療の選択肢について、それぞれの「未来のシナリオ」を仮想的に最後まで展開し、最も安全で価値の高い方針を事前に選定できるようになるのです。

ステップ2:言葉の式

数式の記号を見る前に、まずは私たちが普段行っている判断を日本語で式にしてみましょう。

「今いる状態の価値」は、大きく二つの要素に分けられます。一つは、その行動をとった直後に得られる「直近の見返り」です。もう一つは、その行動をとった結果として移行する「1歩先の未来の価値」です。

しかし、現実はサイコロを振るように不確実です。同じ薬を投与しても、患者さんによって効き目は異なります。そのため未来の価値は、「こういう状態になる確率」と「その状態の良さ」を掛け合わせ、すべての可能性について平均をとった「期待値」として計算しなければなりません。さらに、ずっと先の遠い未来の出来事ほど、予測が難しくなるため少し割り引いて(目減りさせて)考えます。

これをつなぎ合わせると、次のような言葉の式になります。

今の状態の価値 = モデルが予測する(今の見返り) + 割引率 × モデルが予測する(1歩先の状態の価値の確率的な平均)

ステップ3:記号の式

この直感的な考え方を数学的に厳密に定義したものが、強化学習の根幹をなす「ベルマン方程式(Bellman Equation)」です。ここでは、ワールドモデルによる予測(確率的な遷移)を用いた期待値展開版の式を示します (Sutton and Barto 2018)。

\[ V(s_t) = \underbrace{ r(s_t, a_t) }_{\text{予想される直近の報酬}} + \underbrace{ \gamma \sum_{s_{t+1}} P(s_{t+1} \mid s_t, a_t) V(s_{t+1}) }_{\text{予測される1歩先の価値の期待値}} \]

ステップ4:記号辞書

この式に登場するパーツを一つずつ確認していきましょう。

記号読み方意味型・範囲今回の例での値
\( V(s_t) \)ブイ・オブ・エス・ティー状態 \( s_t \) における状態価値。将来得られる報酬の合計の見込み。スカラー(実数)これから計算して求める
\( s_t, s_{t+1} \)エス・ティー
エス・ティー・プラス・イチ
現在(時刻 \( t \))の状態と、1歩先(時刻 \( t+1 \))の状態。ベクトル(患者の各種検査値の並びなど)–
\( a_t \)エー・ティー時刻 \( t \) でAIが選択する行動。ベクトルまたは離散値低用量の降圧剤を投与する
\( r(s_t, a_t) \)アール・オブ・エス・ティー・エー・ティー報酬モデルが予測する、今の行動によって直近に得られる見返り。スカラー(実数)\( 10 \)
\( \gamma \)ガンマ割引率。不確実な未来の報酬を現在の価値に換算するための割合。\( 0 \le \gamma \lt 1 \) の実数\( 0.9 \)
\( \sum \)シグマ起こりうるすべての「次の状態 \( s_{t+1} \)」について、計算結果を足し合わせる演算子。演算子–
\( P(s_{t+1} \mid s_t, a_t) \)ピー・オブ・エス・ティー・プラス・イチ
ギブン・エス・ティー・エー・ティー
遷移モデル(ワールドモデルの核)が予測する、次の状態が \( s_{t+1} \) になる確率。\( 0 \) 以上 \( 1 \) 以下の実数(全パターンの合計が \( 1 \))\( 0.7 \) または \( 0.3 \)

ステップ5:読み下し

数式をそのまま声に出して読むと、次のようになります。

「今の状態の価値 ブイ・オブ・エス・ティー は、直近の報酬 アール に、ガンマを掛けた期待値を足したものである。その期待値の中身は、モデルが予測する確率分布 ピー に従って、起こりうるすべての次の状態の価値 ブイ を足し合わせた(シグマ)ものである」

要するに、この式は「AIの頭の中の予測モデルに基づいて、この先どれくらい良いことが起こりそうか」を、あり得るすべての可能性を網羅して平均化したものだと言えます。

ステップ6:分解

実際の計算は、未来の側から現在へ向かって、次の3つの手順で巻き戻すように行われます。

  1. 未来の分岐の評価(右端の掛け算): まず、ワールドモデルが「この薬を入れたら次にどうなるか」の予測確率 \( P(s_{t+1} \mid s_t, a_t) \) を出力します。その確率と、移行先の状態そのものの価値 \( V(s_{t+1}) \) を掛け合わせます。ここで、確実性が高ければそのままの値が、低確率であれば小さな値が算出されます。
  2. 期待値の集計(シグマとガンマ): 状態が良くなるパターン、悪化するパターンなど、起こりうるすべての未来の分岐について、手順1で掛け算した値を足し合わせます(シグマ \( \sum \) の役割)。これが「期待値」です。そして、遠い未来の不確実さを差し引くために、割引率 \( \gamma \) を掛けます。
  3. 直近の報酬との合算(左側): 最後に、今の行動によって直接得られる報酬(例えば、直ちに痛みが取れる、副作用がないなど)である \( r(s_t, a_t) \) を足し合わせることで、最終的な現在の状態価値 \( V(s_t) \) が確定します。

ステップ7:数値実演

抽象的な記号のままではイメージしづらいため、血圧が高い患者(現在の状態 \( s_t \))に対して、医師AIが「低用量の降圧剤を処方する」という行動 \( a_t \) の価値を頭の中で計算する様子をシミュレーションしてみましょう。ここで使う数字は、すべてワールドモデルが過去のデータから予測した架空の数字だと考えてください。

  • 直近の報酬:低用量ゆえに強い副作用が出ないことに対するプラスの評価として、 \( r(s_t, a_t) = 10 \)。
  • 割引率: \( \gamma = 0.9 \)。
  • ワールドモデルの予測確率と、未来の状態価値:
    • パターンA(血圧が正常値まで下がる):モデルの予測確率は \( 0.7 \)(70%)。正常化した健康な状態の価値は \( V(s_{t+1}^{(A)}) = 100 \)。
    • パターンB(血圧が下がらず高いまま):モデルの予測確率は \( 0.3 \)(30%)。高いままのリスク状態の価値は \( V(s_{t+1}^{(B)}) = 40 \)。

これらをベルマン方程式に代入してみます。

\[ \begin{aligned} V(s_t) &= r(s_t, a_t) + \gamma \sum P \times V \\ &= 10 + 0.9 \times (0.7 \times 100 + 0.3 \times 40) \\ &= 10 + 0.9 \times (70 + 12) \\ &= 10 + 0.9 \times 82 \\ &= 10 + 73.8 \\ &= 83.8 \end{aligned} \]

この計算結果から、AIは「低用量の降圧剤を処方した場合の現在の状態価値は \( 83.8 \) である」と、モデルの想像力を使って定量的に見積もることができました。あとは、同じように「高用量を処方した場合」や「薬を出さない場合」の価値を並行して計算し、最終的に最も数値が大きくなった選択肢を、実際の推奨行動として提示する仕組みです。

ステップ8:直感・限界・意味

なぜ確率で重み付けするのか:
人間の身体や病気の進行は、機械の部品のように「こうすれば必ずこうなる(決定論的)」というものではありません。常に不確実な揺らぎが存在します。単純に一番起こりやすい未来だけを見るのではなく、すべての未来を「確率」で足し合わせて期待値の形をとることで、「めったに起きないが、起きてしまうと致命的な副作用(確率は低いが、状態価値が極めてマイナスになる事象)」を、数学的なリスクとしてきちんと評価に組み込むことができます。

どこで壊れるのか(限界):
この数式の決定的な弱点は、確率 \( P \) と報酬 \( r \) を出力する「ワールドモデル自身が間違っていた場合」には、計算結果がすべて破綻するという点です。もしモデルの学習データが偏っており、「この未承認の劇薬を大量投与すれば、100%の確率で患者は完全回復し、状態価値は10,000になる」という誤った幻想(モデルバイアス)を抱いてしまったらどうなるでしょうか。数式上の期待値は跳ね上がり、AIは自信満々でその極めて危険な行動を現実世界で実行しようとしてしまいます。想像力が豊かすぎるがゆえの暴走です。

何の役に立つのか:
この方程式の最大の意義は、現実では決して試すことのできない何千通りもの治療手順の組み合わせを、計算機上の高速な「行列演算」へと変換できる点にあります。現実の限られた少量のデータから「世界の法則」さえ抽出すれば、あとはコンピュータの中で仮想的に時間を進め、あらゆる分岐を探索できます。これにより、AIは倫理的リスクを冒すことなく、手元にあるデータから最大限の医学的洞察を引き出すことが可能になるのです。

想像の限界と「悲観主義(Pessimism)」という安全機構

前章で数式を用いて解説したように、ワールドモデルは計算機の中で未来を何万通りも展開できる極めて強力な道具です。しかし、この数式と内部シミュレーションには決定的な死角が存在します。それは「モデルバイアス(モデルの偏り)」と呼ばれる問題です。

AIの頭の中に構築された世界は、あくまで過去の限られた学習データから推測された近似値にすぎず、現実の複雑な人体の完全なコピーではありません。たとえば、過去の電子カルテデータの中に「血圧を下げるために、規定量の10倍の降圧剤を一気に投与した」という記録が存在しなかったとします。このような「学習データが存在しない未知の領域(未経験の投薬量や前例のない手順)」に対して、ワールドモデルの予測は精度を完全に失い、医学的常識を無視したデタラメな結果を返すようになります。

モデル搾取:未知を「最適解」と勘違いする危険性

ただ予測が外れるだけであればまだしも、強化学習のAIには「価値を最大化しようと貪欲に最適化を行う」という本質的な性質があります。もしワールドモデルが、未知の領域において「規定量の10倍の薬を投与すれば、100%の確率で患者は完全回復する」という、誤った高い報酬(幻覚)を偶然に出力してしまったらどうなるでしょうか。

AIのアルゴリズムはこの幻のオアシスを見逃しません。「これが今まで誰も見つけられなかった最高の治療法だ」と数学的に勘違いし、その未知で危険な行動を積極的に選ぼうとします。これを「モデル搾取(Model Exploitation)」と呼びます。ビデオゲームのキャラクターが壁の裏のバグ空間に入り込んでスコアを無限に稼ぐような行為であれば笑い話で済みますが、患者の命を預かる医療において、AIのこの「過信」と「未知への無謀な突撃」は致命的な医療事故に直結します。

悲観主義:わからないことには手を出さない数理

この極めて危険な振る舞いを防ぐために、モデルベース強化学習やオフライン強化学習の分野で導入されたのが「悲観主義(Pessimism)」と呼ばれる数学的な安全機構です (Kidambi et al. 2020)。

悲観主義の哲学は極めてシンプルで、医療における「まず何よりも害をなすな(Primum non nocere)」という大原則と完全に一致しています。具体的には、「AI自身のワールドモデルが、今の予測に対してどれくらい自信がないか(不確実性)」を同時に計算させます。そして、自信がない予測、つまりデータが不足している未知の領域の予測に対しては、人為的に報酬を低く見積もる(ペナルティを与える)という操作を強制的に行います。

この安全機構を直感的な数式で表すと、次のようになります。

\[ \tilde{r}(s_t, a_t) = \underbrace{ r(s_t, a_t) }_{\text{元の予測報酬}} – \underbrace{ \lambda U(s_t, a_t) }_{\text{不確実性によるペナルティ}} \]

記号読み方意味
\( \tilde{r}(s_t, a_t) \)アール・チルダペナルティを引き算した後の、悲観的で保守的な新しい報酬(見返り)。AIは最終的にこの値を基準に行動を選びます。
\( r(s_t, a_t) \)アールワールドモデルが予測した、元の報酬。未知の領域では偶然デタラメに高い値(幻覚)になることがあります。
\( \lambda \)ラムダペナルティの強さを決める係数。「どれくらい慎重になるか」を調整するパラメータです。
\( U(s_t, a_t) \)ユーUncertainty(不確実性)。その予測に対する「自信のなさ」。過去のデータに似た症例がないほど、この値は大きくなります。

不確実性を引き算して、手堅さを選ぶ

この引き算の数式が何をしているのかを紐解いてみましょう。式の右側にある \( U(s_t, a_t) \) は、データが少ない未知の治療法(誰も試したことがない極端な選択肢)ほど数値が大きくなります。それに比例して、マイナスのペナルティ項(\( \lambda U \))が重くのしかかる仕組みです。

その結果、ワールドモデルが偶然「未知の劇薬投与は最高の結果をもたらす(大きな \( r \))」という幻覚を見たとしても、同時に「しかし、過去にデータがないので予測の自信は全くない(巨大な \( U \))」と判定され、強烈な引き算が行われます。最終的な評価値である \( \tilde{r} \) は大きくマイナスに沈むため、AIは「よくわからない不確実な治療法で一発逆転を狙う」ことをキッパリと諦めるのです。

この悲観主義のペナルティが組み込まれることで、AIの行動方針は一変します。暗闇の中にある幻の宝を探しに行くのをやめ、「過去のデータに確かな裏付けがあり、予測に自信がある(不確実性 \( U \) がゼロに近い)、手堅く確実な治療法」だけを優先して探索するようになります。

仮想患者を使ったシミュレーションが真に臨床の現場で役立つためには、単に想像力が豊かであるだけでは不十分です。「自分の知識の限界を自覚し、わからないことに対しては徹底して保守的に振る舞う」という数理的な安全装置があって初めて、AIは医療という命を預かる現場に立つスタートラインにつくことができるのです。

医療における「仮想患者」への応用とデータ効率

囲碁や将棋、あるいはビデオゲームの中で、強化学習のAIが早くから人間を凌駕する成功を収めたのには明確な理由があります。それは、「ルールが完全に決まっており、失敗しても何十億回でも安全にやり直せる完璧なシミュレータが最初から用意されていた」からです。しかし、医療、自動運転、ロボティクスといった現実の物理世界には、そのような都合の良いシミュレータは存在しません。現実世界へAIを進出させるための最大の鍵、それは「限られたデータから、世界の変化の法則(シミュレータそのもの)を自前で構築する」というワールドモデルの能力でした。

とりわけ個別化医療の領域において、患者一人ひとりの生理学的な変化を予測する「デジタルツイン(仮想患者)」は、究極のワールドモデルと言えます (Corral-Acero et al. 2020)。過去の膨大な電子カルテ、継続的なバイタルサインのモニタリングデータ、さらにはゲノム情報などを統合することで、AIはその患者固有の疾患の進行モデルを頭の中に構築します。そして、構築されたモデルに対して、「もしこのタイミングで投薬を開始したら」「もし手術を1ヶ月遅らせたら」という数年先までの治療計画の分岐を、想像上で何通りも展開(ロールアウト)させます。

もちろん前章で確認したように、未来の予測には常に不確実性が伴います。しかし、モデルバイアスを考慮し、データの裏付けが乏しい未知の選択肢には「悲観主義」のペナルティを与えながら計算を行うことで、AIは無謀なリスクを避け、最も手堅く効果的な治療方針だけを浮かび上がらせることができます。

こうしたワールドモデルのアプローチは、医療におけるエビデンス創出のプロセスを根本から変える力を持っています。新しい治療法や複雑な投薬手順の有効性を確かなものにするには、厳密な無作為化比較試験(RCT)が必要です。しかし、あらゆる患者の特性、あらゆる薬の組み合わせ、すべての投与タイミングについてRCTを網羅的に実施することは、時間的にもコスト的にも、そして何より倫理的にも不可能です。仮想患者によるシミュレーションは、この「データ効率の壁」を越え、限られた観察データから安全に未来の治療方針を探るための、新しい医学的基盤となるのです (Gottesman et al. 2019)。

想像の中で学ぶAIが拓く、未来の医療

現実の試行錯誤による「失敗のコスト」をいかにゼロに近づけるか。これは長年、医療AIが直面してきた最大のジレンマでした。その壁を乗り越えるための数学的な解答が、本記事で紐解いてきた「モデルベース強化学習」と「ワールドモデル」です。

AIはまず、過去のデータという足跡から「世界がどのように変化するか」の法則を学び取ります。そして、ベルマン方程式という未来価値の計算式と、未知の事象に対する悲観主義という強固な安全装置を両輪として、現実には決して試すことのできない治療の選択肢を、コンピュータの内部で何万回もシミュレーションします。

これは単なる「過去のパターンの暗記」ではありません。行動と結果の因果関係をモデル化し、まだ起きていない未来を想像して最善の道を選ぶという、極めて高度な知能の形です。AIが「世界の変化の法則」を学習し、頭の中の仮想患者で安全に治療の選択肢を試すこの技術は、そう遠くない未来、私たちがより精緻で安全な医療判断を下すための最も信頼できる杖となるはずです。

@yohsuketakasaki 医療AI・テクノロジー・予防医療などについて、 Xでも日々発信しています。 関心のある方はフォローいただけると嬉しいです。 Xでフォローする

参考文献

  • Corral-Acero, J., Margara, F., Marciniak, M. et al. (2020) ‘The \’Digital Twin\’ to enable the vision of precision cardiology’, European Heart Journal, 41(48), pp. 4556-4564.
  • Gottesman, O., Johansson, F., Komorowski, M. et al. (2019) ‘Guidelines for reinforcement learning in healthcare’, Nature Medicine, 25(1), pp. 16-18.
  • Hafner, D., Lillicrap, T., Ba, J. and Norouzi, M. (2020) ‘Dream to control: Learning behaviors by latent imagination’, International Conference on Learning Representations (ICLR).
  • Hafner, D., Lillicrap, T., Norouzi, M. and Ba, J. (2021) ‘Mastering Atari with discrete world models’, International Conference on Learning Representations (ICLR).
  • Hafner, D., Pasukonis, J., Ba, J. and Lillicrap, T. (2023) ‘Mastering diverse domains through world models’, arXiv preprint.
  • Hafner, D., Yan, W. and Lillicrap, T. (2025) ‘Dreamer 4: Scalable World Model Agents’, arXiv preprint.
  • Kidambi, R., Rajeswaran, A., Netrapalli, P. and Joachims, T. (2020) ‘MOReL: Model-based offline reinforcement learning’, Advances in Neural Information Processing Systems, 33, pp. 21810–21823.
  • Sutton, R.S. (1990) ‘Integrated architectures for learning, planning, and reacting based on approximating dynamic programming’, Proceedings of the Seventh International Conference on Machine Learning, pp. 216–224.
  • Sutton, R.S. and Barto, A.G. (2018) Reinforcement learning: An introduction. 2nd ed. MIT press.

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この記事を書いた人

AI医師科学者芸人・医学博士・連続起業家・元厚生労働省医系技官
ハーバード大学理学修士・ケンブリッジ大学MBA・コロンビア大学行政修士
岡山大学医学部卒業後、内科・地域医療に従事。厚生労働省で複数室長(医療情報・救急災害・国際展開等)を歴任し、内閣官房・内閣府・文部科学省でも医療政策に携わる。
退官後は、日本大手IT企業や英国VCで新規事業開発・投資を担当し、複数の医療スタートアップを創業。現在は医療AI・デジタル医療機器の開発に取り組むとともに、東京都港区で内科クリニックを開業。
複数大学で教授として教育・研究活動に従事し、医療者向けAIラボ「Medical AI Nexus」、医療メディア「The Health Choice | 健康の選択」、美・医・食ポータル「Food Connoisseur」を主宰。
ケンブリッジ大学Associate・社会医学系指導医・専門医・The Royal Society of Medicine Fellow

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