AIは医療データを魔法のように理解しているわけではありません。実は、多様な情報を「ベクトル」や「行列」といった統一された数学の言葉(線形代数)に翻訳することで、超高速な計算を可能にしています。その基本的な考え方を見ていきましょう。
AIが扱う情報の最小単位は「スカラー」(単一の数字)です。これをリスト状に束ねたものが「ベクトル」。患者1人のデータを1本のベクトルで表現することで、AIは情報を多次元空間の「点」として捉え、患者同士の類似度を「距離」で計算できるようになります。
ベクトルを積み重ねて作った数字の表が「行列」です。これはExcelの表と同じで、「行が患者、列が特徴量」という形式でデータを整理します。驚くべきことに、モノクロの医用画像もピクセル値を並べた巨大な行列として扱われ、AIはデータ形式を統一的に処理します。
スカラー・ベクトル・行列を一般化したものが「テンソル」です。行列(面)を積み重ねて立体データ(CT画像など)を表現したり、色の層(RGB)を重ねたりと、どんなに複雑なデータも扱えます。TensorFlowなどのAIツールは、このテンソルを高速計算するためのエンジンです。
毎日、私たちの前には膨大な情報が流れていきます。電子カルテに並ぶ無数の検査値、自由記述で書かれた経過記録、そして何百枚にも及ぶCTやMRIの画像データ…。これらのバラバラな情報を、私たちは経験と知識を総動員して統合し、一人の患者さんの全体像を頭の中に描き出していますよね。
では、AIはどうでしょう? AIがレントゲン写真から肺炎の影を見つけ出したり、膨大な論文データから治療法の候補を提案したりするとき、一体どのようにしてこの「情報の洪水」を処理しているのでしょうか。
実は、AIは魔法を使っているわけではありません。彼らは、人間とは全く違う「言語」で世界を見ています。人間が話す自然言語(日本語や英語)をコンピュータが最終的に「0」と「1」のデジタル信号に変換するように、AIは複雑で多様な医療データを、あるたった一つの共通言語に”翻訳”してから処理しているのです。その言語こそが、今回ご紹介する「線形代数」、特にその主役である「ベクトル」と「行列」です。
「うわ、数学の話か…」と、ここでページを閉じようと思った方、もう少しだけお付き合いください。これは、学生時代に苦しめられた難しい数式を解くための授業ではありません。むしろ、AIという優秀な同僚が話す言葉を少しだけ学んで、彼らが私たちの世界をどう見ているのか、その「視点」をインストールするような、エキサイティングな冒険なんです。
驚くかもしれませんが、私たちはすでに日常的にベクトルや行列の考え方に触れています。例えば、外来でよく目にする健康診断の結果票。あれこそが、まさに行列そのものです。これから、そんな身近なたとえ話を交えながら、AIの「公用語」を楽しくマスターしていきましょう!この章を終える頃には、ただの数字の羅列が、AIの目には意味のある「地図」のように見えていることが、きっと実感できるはずです。
すべての始まりは「点」:スカラーという情報の原子
さて、ここからはいよいよAIの言語の世界に足を踏み入れていきます。壮大な冒険の始まりは、いつも一番小さな一歩からですよね。AIが複雑な医療データを理解する旅も、最もシンプルで、これ以上分解できない情報の最小単位から始まります。それが「スカラー」です。
なんだか少し難しそうな名前ですが、その正体は驚くほどシンプル。要するに「たった一つの、単独の数字」のことです。本当に、ただそれだけなんです。
私たちの臨床現場は、このスカラーで満ち溢れています。少し見渡してみてください。
- バイタルサインモニターに表示される体温「37.5」℃
- 血圧計が示す収縮期血圧「130」mmHg
- 採血結果に印字されたHbA1c「6.5」%
- パルスオキシメーターのSpO2「98」%
これら一つひとつの値が、すべてスカラーです。AIにとっては、世界を構成する「情報の原子」のような存在だと考えてみてください。私たちの体が原子からできているように、AIが処理するあらゆる複雑なデータ(例えば、患者さんの状態やレントゲン画像)も、突き詰めればこのスカラーという原子の集まりに過ぎないのです。
料理に例えるなら、「塩 小さじ1」や「砂糖 大さじ2」の、あの数字の部分ですね。この数字一つだけでは料理の全体像は分かりませんが、これがなければ味付けが始まりません。スカラーは、AIにとっての分析の出発点であり、すべての計算の基礎となる、まさに「すべての始まりの点」なのです。
しかし、ご存知の通り、体温が37.5℃という情報だけでは、その患者さんが「風邪なのか」「感染症なのか」「あるいは単に部屋が暑いだけなのか」を判断することはできません。この情報の原子(スカラー)は、それだけでは無力です。
では、これらの原子をいくつか集めて、意味のある「分子」を作るとどうなるでしょうか? ここからが、線形代数の面白いところ。次のステップでは、このスカラーをリストのように束ねた「ベクトル」の世界を探検していきましょう。
情報の原子を束ねて「分子」に:ベクトルという名のリスト
さて、情報の最小単位である「スカラー」を学びました。これは情報の「原子」でしたね。しかし、臨床現場で私たちが一人の患者さんを理解するとき、単一の検査値(原子)だけを見ることはありません。体温、血圧、脈拍、検査データ、愁訴…といった複数の情報を組み合わせて、初めて意味のある「分子」、つまり患者さんの状態という全体像が見えてきます。
AIも全く同じです。バラバラの原子(スカラー)を意味のある塊にするために、情報を一つに束ねる道具を使います。その名も「ベクトル」。難しく聞こえるかもしれませんが、その正体は「順番が決められた数字のリスト」です。そう、スーパーの買い物リストと本質は同じなんです。
患者さんを一本の「リスト」で表現する
例えば、ここにAさんという患者さんがいるとします。私たちはAさんの情報をこんなふうにカルテに書き込みますよね。
- 年齢:45歳
- 身長:170cm
- 体重:65kg
- 収縮期血圧:130mmHg
この4つの情報を、AIが扱いやすいように「Aさんの基本情報リスト」として一つにまとめます。ここで重要なのが、「順番を決める」というルールです。例えば、「1番目は年齢、2番目は身長、3番目は体重、4番目は血圧」というルールを一度決めたら、他の患者さんにも同じ順番を適用します。このルールに沿って数字を並べたものが、ベクトルです。
数学の世界では、このベクトルを次のように書きます。これは縦に並べるので「列ベクトル」と呼ばれます。
\[ \text{患者Aさんのベクトル} \quad \mathbf{a} = \begin{pmatrix} 45 \\ 170 \\ 65 \\ 130 \end{pmatrix} \begin{matrix} \leftarrow \text{1. 年齢 (歳)} \\ \leftarrow \text{2. 身長 (cm)} \\ \leftarrow \text{3. 体重 (kg)} \\ \leftarrow \text{4. 収縮期血圧 (mmHg)} \end{matrix} \]
ここで、ベクトルは小文字の太字(\( \mathbf{a} \))で表すのが一般的です。そして、ベクトルの中の一つひとつの数字(45や170など)を「成分」と呼びます。たったこれだけ?と思うかもしれませんが、この「リスト化」こそが、AIが世界を理解するための巨大な一歩なんです。
ベクトルの本質:多次元空間への招待状
ここからが、線形代数が一気に面白くなるところです。AIは、このベクトルを単なる数字のリストとして見ているわけではありません。AIにとって、ベクトルとは「多次元空間の中の一つの点を示す住所」なのです。
「多次元空間」なんて言葉が出てくると、急にSFの世界みたいですよね。でも、大丈夫。まずは身近な2次元の世界から考えてみましょう。先ほどのAさんの情報から、試しに「身長」と「体重」の2つだけを取り出してみます。
- 患者Aさん:(身長 170cm, 体重 65kg)
- 患者Bさん:(身長 155cm, 体0 50kg)
これを、横軸を身長、縦軸を体重とするグラフにプロットするとどうなるでしょうか?

ご覧の通り、AさんとBさんは、グラフ上の異なる2つの「点」として表現できました。このグラフが「2次元空間」です。そして、この2つの点の物理的な距離が、二人の患者さんの体格の「近さ」や「似ている度合い」を直感的に表していることに気づきませんか?
では、ここに「年齢」という3つ目の軸(奥行き)を加えたらどうでしょう? グラフは箱のような「3次元空間」になり、患者さんはその立体空間に浮かぶ一つの点になります。さらに、「血圧」という4つ目の軸を加えると…?
残念ながら、ここからは私たちの頭では想像できません。でも、AIは平気です。彼らは、特徴量の数(成分の数)が100個あれば100次元、1000個あれば1000次元の、人間には到底見ることのできない「超多次元空間」の中で物事を考えています。
この超多次元空間の中で、AIはそれぞれの患者さん(点)がどこに位置しているのかを把握し、点と点の間の「距離」を計算します。この距離が近ければ「似ている患者」、遠ければ「似ていない患者」と判断するわけです。
医療におけるベクトルの絶大なパワー
この「空間と距離」という考え方が、医療AIの根幹を成しています。例えば、
- 診断支援:過去のデータから、「肺炎だった患者群」と「肺炎ではなかった患者群」が、この空間内でそれぞれ別のエリアに固まって分布しているとします。そこに新しい患者Cさんのベクトルをプロットしたとき、AIはCさんがどちらのエリアに近いかを計算し、「この患者さんは肺炎である可能性が85%です」と確率を提示できます。
- 個別化治療:「薬剤Xが著効した患者群」のクラスター(点の集まり)を見つけ出すことができれば、新しい患者さんがそのクラスターにどのくらい近いかを評価し、「この患者さんには薬剤Xが効く可能性が高い」と予測できます。これは、個別化医療やプレシジョン・メディシンの実現に不可欠な技術です(Miotto et al., 2018)。
このように、ベクトルは一見するとただの数字のリストですが、その本質は複雑で捉えどころのない患者情報を、AIが計算可能な「空間の座標」へと変換する、魔法のような翻訳機なのです。この翻訳機があるからこそ、AIはデータの中に隠された人間には見えない関係性やパターンを、幾何学的な問題として解き明かすことができるんですね。
最強の「一覧表」:ベクトルたちを整列させる行列(マトリックス)
さて、ベクトルという強力な道具を手に入れたことで、私たちは一人の患者さんの情報を、AIが理解できる「多次元空間の住所」として表現できるようになりました。これは大きな進歩です!
でも、実際の臨床現場を思い出してください。外来には何十人もの患者さんが訪れ、病棟にはたくさんの入院患者さんがいます。研究で扱うデータは、時には何千人、何万人という規模になります。一人ひとりの患者さんを個別のベクトル(リスト)として管理していたら、情報が散らかって大変なことになってしまいますよね。
そこで登場するのが、ベクトルたちをビシッと整列させるリーダー、その名も「行列(マトリックス)」です。行列は、一言でいえば「ベクトルを積み重ねて作った、数字の長方形の表」。そう、何を隠そう、私たちが日常的に使っているExcelのスプレッドシートや、健康診断の結果一覧票そのものなんです。
応用例①:患者コホートデータという名の行列
ベクトルで一人の患者さん(情報の分子)を表現できるようになったので、今度はその分子を集めて、意味のある物質、つまり「患者集団(コホート)」を作ってみましょう。
先ほどのAさん(45歳, 170cm, 65kg)に加えて、Bさん(62歳, 158cm, 55kg)、Cさん(38歳, 180cm, 75kg)のデータをまとめて管理したいとします。それぞれの患者さんのベクトルを、一行ずつ積み重ねてみましょう。
\[ \mathbf{X} = \begin{pmatrix} 45 & 170 & 65 \\ 62 & 158 & 55 \\ 38 & 180 & 75 \end{pmatrix} \]
この数字の塊が行列です。行列は、通常は大文字の太字(\( \mathbf{X} \))で表されます。この表が、AIにとってどれほど見やすく、扱いやすいかを図で見てみましょう。
どうでしょう? 完璧に整理されましたよね。この美しい構造がAIにとって非常に重要なんです。
- 横方向の「行」は、それぞれ一人の患者さんを表すベクトルです。行を見れば、その患者さんの全体像が分かります。
- 縦方向の「列」は、すべての患者さんに共通する一つの特徴量(例えば「年齢」だけ)の集まりです。列を見れば、集団全体の年齢分布などが分かります。
このように、「行がサンプル(患者)、列が特徴量」という形式は、AIやデータサイエンスの世界における黄金律です。私たちが臨床研究で集めるデータも、電子カルテから抽出したデータも、AIに学習させる前には、必ずこの行列という整然とした形に整えられるのです。
応用例②:医用画像という名のピクセルの行列
さて、ここからが線形代数の真骨頂です。一見すると全く違うものも、AIの目には同じ「行列」に見えている、というお話をしましょう。
実は、モノクロのレントゲン写真やCTの1スライス画像も、AIにとっては巨大な「行列」に他なりません。
「え、どういうこと?」と思いますよね。画像をぐーっと、これ以上ないくらい拡大していくと、最終的には何が見えてくるでしょうか? そう、色のついた小さな四角い点の集まり、「ピクセル」です。
モノクロ画像の場合、それぞれのピクセルは「明るさ」というたった一つの情報しか持っていません。この明るさを、例えば「0(真っ黒)から255(真っ白)まで」の数字に置き換えることができます。そして、この数字を画像の通りに格子状に並べると…。
ほら、この通り! 一枚のレントゲン写真が、ただの数字がびっしり詰まった「行列」に変換されました。例えば、512ピクセル × 512ピクセルの画像なら、AIはそれを「512行512列の巨大な行列」として認識します。
私たち人間は、画像の中の「形」や「構造」(例えば、肋骨のカーブや肺野の浸潤影)を経験的に認識します。一方で、AI(特にCNNという画像認識が得意なモデル)は、この数字の行列の中から、病変に特徴的な「数字の並びのパターン」を直接学習していくのです。例えば、「周りより極端に数字が大きい(白い)領域で、かつ特定の形をしている」といったパターンを、何百万ものパラメータを使って見つけ出します。
患者さんのデータ一覧も、レントゲン写真も、AIにとっては同じ「行列」という土俵の上にあるデータ。この視点を持つと、AIがなぜ多様なタスクをこなせるのか、その秘密の一端が見えてきませんか? 行列は、異なる種類の情報を統一的に扱うことを可能にする、まさに最強の「一覧表」なのです。
究極の整理箱!データを立体的に捉える「テンソル」
さて、情報の「原子」であるスカラー(点)から始まり、それを束ねて「分子」にしたベクトル(線)、さらにそれを一覧表にした行列(面)へと、私たちのデータの表現方法はどんどんリッチになってきました。点、線、面とくれば、次は何を想像しますか? そう、「立体」ですよね。
臨床現場で私たちが日々向き合っているデータは、もはや平面の一覧表(行列)だけでは収まりきらないものがほとんどです。例えば、
- 何十枚、何百枚とスライスが重なったCTやMRIのボリュームデータ
- 赤、緑、青の色の情報が重なったカラーの内視鏡写真や病理画像
- 心臓の動きを捉えた心エコーの動画データ
これらの複雑で立体的な、あるいは時間的な広がりを持つデータを、AIはどうやって扱っているのでしょうか。ここで登場するのが、今回の冒険のクライマックスとも言える「テンソル」です。テンソルはラスボスのように聞こえるかもしれませんが、その正体は、どんな形のデータでもすっぽり収めてしまう「究極のデータ整理箱」なんです。
テンソルファミリー:実はみんな親戚だった
驚くかもしれませんが、実はこれまで学んできたスカラー、ベクトル、行列は、すべてこのテンソルという大きなファミリーの一員です。テンソルは、数字の配列を一般化したもので、「階数(rank)」という言葉でその形を区別します。この「階数」とは、そのデータの中の特定の数字を指定するために必要な「住所の番号(インデックス)」がいくつあるか、と考えると分かりやすいです。
| ファミリー | 階数 (Rank) | 例えるなら | 必要な住所の番号 | 医療での例 |
|---|---|---|---|---|
| スカラー | 0階テンソル | 点 (0次元) | 0個 (それ自身) | 体温「37.5」 |
| ベクトル | 1階テンソル | 線 (1次元配列) | 1個 (何番目?) | 患者さんのバイタルリスト |
| 行列 | 2階テンソル | 面 (2次元配列) | 2個 (何行目の何列目?) | 複数患者のデータ一覧、モノクロ画像 |
| 3階以上のテンソル | 3階以上のテンソル | 立体、超立体… | 3個以上 | CT/MRI画像、カラー画像、動画 |
医療現場で活躍するテンソルの具体例
では、3階以上のテンソルが、実際にどのように使われているのか見ていきましょう。
3階テンソル:CT画像という「行列の束」
CTやMRIのデータは、多数の連続した断面画像(スライス)から成り立っています。一つひとつのスライス画像は、ピクセルの明るさを数字で表した「行列(2階テンソル)」でしたよね。3階テンソルは、この行列を本のページのように積み重ねて一つの「束」にしたものです。

このように、CTデータは「スライス枚数」「高さ」「幅」という3つの住所番号で、特定の点(ボクセル)の値を指定できるため、3階テンソルとなります。AIは、この立体的なデータのまま、3D-CNNといった手法で肺結節などの病変を空間的に認識することができます。
3階テンソル(別バージョン):カラー病理画像という「色の層」
同じ3階テンソルでも、少し違った使われ方があります。それはカラー画像です。例えばH&E染色の病理画像は、一見すると一枚の平面画像に見えますが、デジタルデータとしては「赤(R)」「緑(G)」「青(B)」の3つの色の層が重なっています。それぞれの色の層が、明るさを示す一つの「行列」なのです。

この場合、住所番号は「高さ」「幅」「色のチャンネル(R,G,Bのどれか)」の3つになります。AIは、この色の情報を直接利用して、細胞の核の染まり具合などを学習します。
4階テンソルとそれ以上:心エコー動画、そして患者集団へ
では、心エコーや腹腔鏡手術の「動画」はどうでしょう? 動画とは、要するにカラー画像(3階テンソル)が時間と共にパラパラ漫画のように連なったものですよね。つまり、「時間(フレーム)」という4つ目の軸が加わります。
- 4階テンソル(動画データ): 形状は
[時間(フレーム数), 高さ, 幅, チャンネル数]となります。
さらに、AIの学習では、一人の患者さんのデータだけでなく、何十人分ものデータをまとめて処理することがよくあります。これを「ミニバッチ」と呼びます。例えば、16人分の心エコー動画をまとめてAIに学習させる場合、さらに「誰のデータか」を区別する軸が先頭に加わります。
- 5階テンソル(動画データセット): 形状は
[バッチサイズ, 時間, 高さ, 幅, チャンネル数]となります。
ここまでくると頭がクラクラしそうですが、基本は「データが複雑になるたびに、新しい軸(次元)を付け足していく」というシンプルなルールです。
AI、特に深層学習のライブラリである「TensorFlow」の名前が、なぜ「テンソル」なのか、もうお分かりですね。これらのツールは、テンソルという究極の整理箱を使って、どんなに複雑なデータでも効率よく計算するための、いわば超高性能な計算エンジンなのです。テンソルという考え方があるからこそ、AIは現実世界の豊かで複雑な情報を、その構造を壊すことなく、ありのままの形で受け入れ、学ぶことができるのです。
なぜこれが「AIの公用語」なのか? その本当の理由
さて、ここまでスカラー(点)、ベクトル(線)、行列(面)、そしてテンソル(立体)と、AIがデータを格納するための様々な「器」を見てきました。しかし、ここで一つの素朴な疑問が湧いてきませんか?
なぜAIは、患者さんの情報をわざわざベクトルだの、行列だの、テンソルだのといった、小難しそうな「数学の言葉」に翻訳する必要があるのでしょうか?
その答えは、たった一つの、しかし極めて重要な目的のためです。それは「コンピュータに、人間には到底不可能なスピードで計算させるため」。もう少し具体的に言うと、「並列計算」というコンピュータの能力を最大限に引き出すためなんです。
AIの学習は「単純作業」の超高速繰り返し
AIの学習や推論のプロセスは、その内部で行われていることをものすごく大雑把に言うと、膨大な数の掛け算と足し算の繰り返しです。その数は、何百万、何千万どころか、時には何兆回にも及びます。まるで、巨大な倉庫にある無数の荷物に、一つひとつラベルを貼っていくような、途方もない単純作業です。
もし、この作業をスカラー、つまり数字一つひとつに対して行っていたらどうなるでしょう? これは、倉庫の荷物を一個ずつ、手作業で運んでラベルを貼っていくようなもの。一つひとつの作業は一瞬でも、全体が終わる頃には何年もかかってしまいます。これでは実用的ではありません。
そこで先人たちは考えました。「荷物をパレット(ベクトル)やコンテナ(行列)にまとめて、フォークリフト(計算機)で一気に運べばいいじゃないか!」と。この発想の転換こそが、現代AIのブレークスルーの鍵だったのです。
計算の天才、CPUとGPUの得意技の違い
ここで、コンピュータの頭脳である「CPU」と、AI計算で主役となる「GPU」の違いを、私たち医療者に馴染み深い「病院の働き方」に例えてみましょう。
- CPU (Central Processing Unit): 彼は「一人の天才外科医」のような存在です。複雑で手順が重要な手術(逐次的な処理)を、驚異的な速さと正確さでこなします。しかし、どんなに天才でも同時に二つの手術はできません。一つのタスクに集中して、順番に片付けていくのが得意技です。
- GPU (Graphics Processing Unit): 彼女は「何百人もの優秀な研修医からなるチーム」です。一人ひとりに高度な手術は任せられませんが、「採血」「点滴」「バイタル測定」といった比較的単純な作業なら、全員で一斉に、同時に何百人もの患者さんに対応できます。
AIの学習に必要な「膨大な数の単純な掛け算・足し算」は、どちらの働き方に似ているでしょうか? …もうお分かりですね。まさに、GPUが得意とする「単純作業の一斉処理(並列計算)」そのものなのです。
ベクトルや行列、テンソルという「塊」にデータをまとめておくことで、GPUはこの塊を丸ごと受け取り、内部にある何千もの小さな計算コアを使って、各成分の計算を一気に行うことができます。これは、料理で野菜を一つひとつ包丁で切るのではなく、巨大なフードプロセッサーにまとめて入れて一瞬でみじん切りにするような圧倒的な効率化です。
この計算効率の良さこそが、現代のAI、特に深層学習のパワーの源泉なのです。線形代数は、ごちゃごちゃのままでは調理できない生の医療データを、AIという超高性能なフードプロセッサーにかけるための、完璧な「下ごしらえ」の技術と言えるでしょう。
冒険の第一歩、そして未来へ
今回は、AIの頭の中を覗くための第一歩として、彼らの「公用語」である線形代数の基本をご紹介しました。これらの概念は、これからAIの様々な技術を学んでいく上での、決して避けては通れない、しかし最も強力な土台となります。
一見すると無機質でとっつきにくい数学も、医療現場の具体的なデータと結びつけてみると、その目的やパワーが、意外なほど生き生きと見えてきたのではないでしょうか。
この「共通言語」を少しでも理解できたあなたは、もうAIの単なるユーザーではありません。AIがなぜそのような判断をしたのか、その思考の「設計図」の一部を読み解く力を手に入れた、未来の医療を創るパートナーなのです。
※本記事は情報提供を目的としたものであり、特定の治療法を推奨するものではありません。健康に関するご懸念やご相談は、必ず専門の医療機関にご相談ください。
参考文献
- Goodfellow, I., Bengio, Y., & Courville, A. (2016). Deep Learning. MIT Press. (線形代数が深層学習でどのように使われるかについての基礎的な教科書)
- Shickel, B., Tighe, P. J., Bihorac, A., & Rashidi, P. (2018). Deep EHR: a survey of recent advances in deep learning for electronic health records. IEEE journal of biomedical and health informatics, 22(5), 1589-1604. https://doi.org/10.1109/JBHI.2017.2767063 (電子カルテデータをテンソルなどの形式で表現し、深層学習に応用する研究のサーベイ論文)
- Strang, G. (2016). Introduction to Linear Algebra (5th ed.). Wellesley-Cambridge Press. (線形代数の標準的な教科書)
- Miotto, R., Wang, F., Wang, S., Jiang, X., & Dudley, J. T. (2018). Deep learning for healthcare: review, opportunities, and challenges. Briefings in bioinformatics, 19(6), 1236–1248. https://doi.org/10.1093/bib/bbx044 (深層学習が医療分野でどのように使われ、患者データをベクトル化するアプローチが解説されている)
- Goodfellow, I., Bengio, Y., & Courville, A. (2016). Deep Learning. MIT Press. (深層学習におけるテンソルの基礎的な説明が記述されている)
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